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Goodfellas House Choose One!

ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...

Midnight Express
主演 ブラッド・デイヴィス
監督   アラン・パーカー
音楽  

ジョルジオ・モロダー

 
 

お父さん、お母さん。こんなショッキングな手紙を書くのは初めてです。
これを読んだら、お二人は驚き、混乱し、悲しみ、そして絶望なさることでしょう。
僕は昨日イスタンブール空港でハシシ(大麻)の不法所持のかどで逮捕されたのです…

ビリー・ヘイズ 

 

 1970年のある日。そう、僕はトルコのイスタンブールで恋人のスーザンと帰国の途につこうとしていた。でも僕の心臓は爆発寸前だった。なぜなら、ひそかに2キロのハシシを体に巻きつけて持ち出そうとしていたのだから。不安は適中、ゲリラを警戒中の警備員に見つかり逮捕されてしまった。何も知らないスーザンを残して。

 全裸にされて尋問を受けている間、僕は未だ事の重大さを理解していなかった。「せいぜい、即刻国外追放ってところさ」と思っていたが、実はそう事は簡単には行かなかった。

 


 アメリカ領事館員らしき男の口からは
  「運が悪いなビリー。たかが大麻でもこの国では重罪なんだよ。今、トルコでは麻薬撲滅運動中なんだぜ。」
  「た、大麻は麻薬ではありません。中毒性もないし…」
  「大麻も麻薬も同じさ。罪は罪なんだよ。
  …考えが甘かった。帰国したら友達に売ったり、自分で使用するつもりで、ほんの軽い気持ちだった。捕まるなんて考えもしなかったし、トルコの情勢すらも知らなかった。そう、僕はあまりにも若くて愚かだった。隙を見て逃げ出したが、あっさり捕まり、僕はセイガミルカー刑務所に送られた。…そこは想像を絶する地獄の世界の始まりだった…

 

 僕は早速、残忍な看守長のハミドゥの拷問を受けた。意識朦朧の僕を介抱してくれたのは、囚人のマックスとジミーだった。
 マックスは僕に言った。
 「えらいトコに来てしまったな。ここに入れられたら最後、廃人になるか深夜特急(ミッドナイト・エクスプレス)に乗るかだ。」
 「そんな列車がここに?」
 「まさか!そんな列車はここには停車しないさ。深夜特急ってのは脱獄のことさ。ま、乗る事は出来ないがね。」
 その時、僕は脱獄なんか考えてもいなかったが、アメリカから父も駆けつけて弁護士を頼んだ甲斐もなく、4年の刑が確定した。求刑はなんと終身刑だった!こんな汚い地獄のような場所で4年は、20歳の僕には長すぎる。でも僕はひたすら孤独と絶望の日々を耐え忍んだ。4年後には自由になれると信じて…

 
 

 なんとか刑期もあと1か月と少しとなった時、僕は法廷に呼ばれた。単なる不法所持に納得できない検察が、密輸容疑で上告した結果再審が決定してしまったのだ。再び終身刑を求刑され、なんと刑期30年という判決を受けた!大麻の密輸で30年?何かがこの国では狂ってる!僕は重罪人なんかじゃない!この時、僕の中で何かが壊れた。そう、脱獄を決意したのだ!ジミー、マックスと組んで地下壕から逃げる計画を立てたが、密告屋のリフキによって水の泡となった。

 ジミーはどこかに連れて行かれた。彼は二度と戻る事は出来ないだろう。マックスと僕はリフキの隠し金を燃やして復讐したが、リフキもマックスに大麻所持の濡れ衣を着せて復讐した。唯一の友人、マックスも拷問のため連行された時、僕は発狂した!リフキに襲い掛かって殺してしまったのだ!

 
 

 7ヵ月後。僕は精神病の囚人の収容所で、もはや廃人寸前となっていた。そこにはマックスも居たが彼もまた廃人同然だった。何とか正気を保とうとしたがもう限界だった。
 その時、恋人のスーザンがアメリカから面会に来た。僕の廃人のような変り果てた姿にスーザンは涙した。でも僕はそんなスーザンに「裸を見せてくれ!」と懇願した。そんな哀れな僕にスーザンは涙を流しながら言ったのだ。

 「ビリー、こんな所に居ては死んでしまう。誰も信じちゃいけないわ!一日も早くここから出るのよ!」

 

 スーザンの一言で僕は目が覚めた。もう何も言っても判らぬマックスに声をかけた。

 「僕はここから出る。お前も死ぬなよ!いいな!」

 僕は狂ってはいなかった。
 僕はもう一度、スーザンの残した言葉を頭の中に叩き込んだ。

 「何とかしてここから出るのよ!」

 1975年のある日、ついに僕は深夜特急(ミッドナイト・エクスプレス)に乗った…

 「実を言うと音楽はヴァンゲリスを希望していた。」と監督のアラン・パーカーは振り返る。パーカーはラフ・カットにもヴァンゲリスの数枚のアルバムからチョイスし、仮の音楽として製作のピーター・グーバーデイヴィット・パットナムらにそのラフ・カットを観せた。恐らくヴァンゲリスのRCAのアルバム、『反射率0.39』『天獄と地獄』などを使用したのだろう。しかし当時、ヴァンゲリスは大物であり、低予算の制作費の本作では彼に依頼できるだけの予算が無かった。

 そこでグーバーは妥協案として本作はレコード会社のカサブランカが製作なのでレーベルのアーティストを起用してサウンドトラック・アルバムを自社レーベルで出せばいい、と提案した。カサブランカ・レーベルは小さなレコード会社だったが、ドイツの無名歌手、ドナ・サマーを大ヒットさせて一躍、メジャー・レーベルとなっていた。1977年当時がそうだ。そんなサマーのプロデューサーであり、作曲者だったのがジョルジオ・モロダーだった。そんなモロダーに勢作陣はスコアを依頼することとなったのである。

 

 「ごく最初はストリングスを用いてオーソドックスなスコアを考えていた。」
と語るモロダーはイタリア人だ。母国イタリアで作曲者・アレンジャー・プロデューサーとしてキャリアをスタート。1960年代に活躍をドイツに移してイタリア映画の『天獄か地獄か』のカヴァー、『マナ・マナ』をヒットさせてから本格的にアルバムをリリース。『サン・オブ・マイ・ファーザー』『サテンの夜』『永遠の願い』などでミュンヘン・サウンドのトップ・スターになる。そしてドナ・サマーのプロデュースでディスコ・ミュージックのキングにもなった。そんなモロダーも1970年代の初期に小規模な映画、2本程にスコアを書いた経験があるが、本作が初めての英語圏の映画のスコアという事でミュンヘンのスタジオに篭ってその全編エキゾチックでエレクトロニックなスコアを完成させた。

 
 結局、パーカーも大満足したそのスコアは、当時、画期的な電子音のスコアで我々に衝撃を与えたのだ。不安な主人公を象徴するかのようなノイズ・ミュージック。トルコという場所に相応しい、エスニックなアレンジ、狂気のような響き。そして哀しみに満ちたテーマ曲。切ないピアノの音。そんなモロダーのスコアは、全編にわたってほんの少量ずつ流れ、まるで効果音のようにサウンドトラックに溶け込んでいる。映像の邪魔にはならずに見事にフィットしているのだ。現在の映画のスコアのような大量な垂れ流し状態ではない。押さえ気味に流れたスコアも、ラスト・シーンで主人公のビリーが眩しい太陽を目にする時、高らかに鳴り響く効果が素晴らしい。これぞ映画音楽だ!
 

  見事モロダーは本作で1978年のアカデミーでオリジナル作曲賞を受賞(同時期にエンニオ・モリコーネもノミネートされていた)、そして本作後もポール・シュレイダーの『アメリカン・ジゴロ』('80)、『キャット・ピープル』('82)、エイドリアン・ラインの『フォクシー・レディ』('80)、『フラッシュ・ダンス』('83)、そしてブライアン・デ・パルマの『スカーフェイス』('83)などの傑作スコアを発表した。正に80年代はモロダーの時代だった。

 

 当時から
  「オーケストラを用いないスコアは最低。チープな流行音楽。シンフォニックでない映画音楽なんて!
  といった声もあったのは事実だ。
  しかし考えても見たまえ!

 『ミッドナイト・エクスプレス』のスコアがただのオーケストラ音楽だったら?
 『アメリカン・ジゴロ』にブロンディの歌声がなかったら?
 『キャット・ピープル』」のあのクールなシンセサイザーが無かったら?
 『スカーフェイス』に重いシンフォニックなスコアが流れて『プッシュ・イット・トゥ・ザ・リミット』が流れなかったら?

 そんなのありえねえ!!

 その後モロダーは映画音楽と他のアーティストのプロデュースを続行。初期から彼の音楽ブレーンだったメンバーも続々と映画音楽に進出してゆく。片腕のハロルド・フォルターメイヤーが『ビバリーヒルズ・コップ』('84)、『誘惑』('84)、『トップ・ガン』('86)で独り立ちし、キース・フォーシーも『ブレックファスト・クラブ』('85)、ゲイリー・チャンも『デス・ポイント』('86)などでそれぞれスコアを担当するなど台風のような活躍であった。

 

 しかし『トップ・ガン』の主題歌、『愛は吐息のように』で3つ目のオスカーを得た時が絶頂期であったのか、その後、急激に才能が枯れてしまう。オーバー・ザ・トップ』('87)、『ランボー3 怒りのアフガン』('88)にソング・ナンバーを提供するがいま一つな所へ、日本映画の『アナザーウェイ D機関情報』('88)で何か不安を感じていた時のトドメが、イタリア映画の『フェア・ゲーム(毒蛇マンバ)』('89)だ。この『フェア・ゲーム』のサウンドトラック・アルバムはイタリア、ドイツ、フランスでリリースされたが、結局これが最後のモロダーのサウンドトラック・アルバムとなってしまった(その後、数本担当するもリリースされず)。

 

 そのまま時代の流れと共にモロダーは消えて行ってしまう。現在はドイツに戻って小さなドイツ映画のスコアを書いたり、過去の自分のアルバムのCDがドイツでリリースされたり、2003年には『スカーフェイス』のリミックスCDをプロデュースといった地道な活動をしている。過去のヒット・ナンバーの印税で遊んでていても暮らせるだろうが、願わくば復活を望みたいものである。

  1984年、モロダーは『スカーフェイス』の『ジーナとエルヴィラのテーマ』のピアノを演奏していたヘレン・セント・ジョンのソロ・アルバムをプロデュース。そしてそのプロモーションで来日した時、こう語った。

 「『スカーフェイス』は私の自信作なんだ。私はあの映画に入れ込んでいるんだ。その点、『D.C.キャブ』、『エレクトリック・ドリーム』などには思い入れはない。私はキーボードを弾くのが下手でね。いつも2本の指で弾くんだ。私の映画音楽はね、『ミッドナイト・エクスプレス』が原点なんだよ。あの作品だけは忘れないよ。永遠にね。」

 1977年、只のディスコ・ミュージックのレーベルだったカサブランカ・レーベルは、本格的に映画製作とサウンドトラックのレコードをリリースする事となった。1974年頃からレコード会社が映画製作に相次いで乗り込んでいたのだ。EMI、モータウン、RSOなどがそうだ。映画を製作し音楽もガンガン売り込む。その相乗効果がニュー・ビジネスであった。

 
 元々、カサブランカの創業者の二ール・ボガードは大の映画マニアであり、ハンフリー・ボガードの大ファンであることからボギーの映画『カサブランカ』をレーベル名にして自らボガードを名乗る事となる。社名も「カサブランカ・レコード&フィルム・ワークス」として元コロンビア映画のジョン・ピータースを招いて1977年、『ザ・ディープ』を製作。そしてジョン・バリーのサウンドトラックをリリース。主題歌を自社の看板娘、ドナ・サマーに唄わせて「売れるサウンドトラック」としてリリース。シングル、ディスコティック用の12インチ・シングル、そしてアルバムも限定盤として「ブルーのカラー・レコード」もリリースして大ヒットさせた。
 

 同年、デーヴ・グルーシンの『ボビー・デアフィールド』もアル・パチーノのポートレート・ポスター付きでリリース。アルバムはBサイドがサウンドトラック、Aサイドがアルバム用のアレンジ・ヴァージョンと従来には無い「スペシャル・エディション」としてリリースしたのが大当たり。そして本作のアルバムもモロダー自身が、アルバム用にアレンジした使用にてリリースした。曲のモチーフをもっとコマーシャルにしてミュンヘンとロスのスタジオで再レコーディング。もはやこのアルバムは、映画の音楽をそのままパッケージしたアルバムでは無かった。

 

 映画本編では短い曲をロングにし、本編では聞けないテーマのヴォーカル・ヴァージョンも収録。本作の大ヒット後、他社のサウンドトラック・アルバムもこのような「手を入れたヴァージョン」にてリリースされるのが、ポピュラーとなった。モロダーのプロデューサーとしての才能が、ここに生かされたのだ。8曲入りのアルバムは世界中でリリースされてビッグ・セールスを記録。シングル・カットもされてヒット、そしてドイツでは12インチ・シングルもリリース。このシングルの「CHASE」はヨーロッパではポピュラー・ヒットとなり数々のカヴァーを生み、モロダー自身もセルフ・カヴァーをリリースした名曲となった。アナログ盤は1978年のリリースから10年以上も好セールスを記録しており、CDのリリースも早く、1984年頃にはリリースされていた位のヒット・アルバムなのである。

 

 

 「明日、君に起こるかも知れぬことが、ビリー・ヘイズに起こったのだ。そしてどんなことになっても希望を失ってはならない!という教訓がここにある。

 製作総指揮のピーター・グーバーの当時の言葉だ。製作時、グーバーをはじめ監督のアラン・パーカー、製作のデイヴィッド・プットナムアラン・マーシャル、脚本のオリヴァー・ストーン、そして主演のブラッド・ディヴィス皆、20代後半から30代半ば程度の若者だった。スタッフはまるでロック・ミュージシャンのような長髪。そして皆、「世間知らず」だった。扱うテーマも、当時の実在のビリー・ヘイズ自身も言葉も「私は当時は、まるで世間知らず」だったという。

 

 若者の特権としてその「知らなさ」が、良くもあり、悪くも作用する。本作も全くそうであり、映画自体も公開時にそれが話題となった。パーカー達もその辺が疎かったのか、公開時、まずトルコ側から集中砲火を浴びた。勿論、「トルコを湾曲して描いた人種差別映画」と非難を浴びたのだ。日本でもトルコ大使館から抗議が来て、その為か2週間程度で公開が打ち切られた。その後、名画座で上映されるようになってから人気を集めたが、抗議の声は止まなかった。1980年代に入り、テレビのゴールデンタイムの放送は見事に中止となり、その後ひっそりと深夜に放送された。

 

 若者の世間知らずな行動を扱った本作は、そんな主人公に共感した者達で作られたのだ。「何とかなるさ。明日に希望を。」そんな楽観から主人公は、罪を犯すがその後はヒーローとなり一本の映画を生む。携わったスタッフたちも低予算ながら無謀な撮影で映画を完成させる。本作の舞台裏程、面白いものはない。無謀にも一部の外観をトルコで隠し撮り、脚本のオリヴァー・ストーンは当時もその後も違法な薬の常習者であり、原作には無いエピソードもドンドン取り入れた。撮影もアマチュア式で撮られており、パーカーは現場の思いつきで脚本を変えて撮影していった。
  製作陣もそんなパーカーをバックアップ。つまりロック・ジェネレーションの彼らだからこそ、この名作が誕生したのである!

 

 本作は音楽に例えるならばやはりロックだろう。聴く者、観る者をその色に一瞬にして染めてしまうそのパワー。悲しいことに現在には、たった一本の映画でこれほどの衝撃を味わうことは皆無に等しい。
 また、こんなロック・スピリットも味わえない。後頭部を殴られたような衝撃。希望、喜び、挫折、生きること、自由、愛、そして太陽の美しさ。しかし観る者によって嫌悪感をもよおす映画でもある。主人公の「甘さ」に眉をひそめる者もいる。現に当時、有名な批評家が「この映画はアメリカ人の若者の身勝手さ、イイ子ぶりが目立ち、私は嫌いな映画!」と評した。そうですか、そんな事はどうでもいい。ロックも人によってノイズにしか聞こえないのだから。よってロック・ミュージックが、永遠不滅同様、本作も永遠にその輝きを失うことはない。

 

 現在、主人公を演じた当時ジェームス・ディーンの再来!といわれたブラッド・ディヴィスは、数年前に麻薬を打つ針から感染したエイズで亡くなったが、実在のビリー・へイズは健在だ。余談だが原作と映画では脱出方法が違うし、自由になった時のビリーの気分は、映画では描かれていない。その時のビリーの自由の気分が、原作に記されている。その部分が、最高にロック!なのだ。その記述とは―

 

僕は売店でプレイボーイを買った。もちろんすぐに真中の折込を開けた。誰か見てやしないかと思い、パタンと閉じてあたりを見回した。それからもう一度、開いてながめた。5年間の間にずいぶん変っていた。そしてホテルのバーへ行った。人々は笑いながらビールを飲んでいた。ファンキーなサックスが流れていた。音楽もずいぶん変っていた。美しいウェイトレスが僕にビールを運んできた。ああ人生!なんて甘いんだろう。そしてストロベリー・アイスクリーム・ソーダを二杯も飲んだ。

上の部屋に行って長い間熱いシャワーを浴びた。これまでのことを全部思い返した。まるで奇怪な夢のようだった。全ては過ぎ去ったこと、私は心から感謝した。僕の前に人生が開けている!

そして僕は眠りについた。午前3時頃突然飛び起きた。それから僕は大声で笑い出した!