第1回〜第10回 第11回〜第20回 第21回〜第30回
第31回〜第40回 第41回〜第50回 第51回〜第60回
第61回   第62回   第63回   第64回   第65回   第66回   第67回   第68回   第69回   第70回
第71回   第72回   第73回   第74回   第75回   第76回   第77回   第78回   第79回   第80回
 
Goodfellas House Choose One!
 

ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...

監督 リドリー・スコット
音楽 ハンス・ジマー
主演 マイケル・ダグラス
高倉健
松田優作

 あの時の大阪は熱かったんや。
 1985年・昭和60年の年明けから春頃までは、街中で地元ヤクザ組織の銃撃戦をやっとった。
商店街の喫茶店でおしぼり袋を両手でパーンとやるだけで皆「弾かれる!」と地面に伏せたもんやった。
 夏頃にはなんでか異常に阪神タイガースがぶっちぎりの快勝が続くもんやから難波の飲み屋では「阪神が優勝したら大阪は、爆発するで。」が酒のアテやったが、ホンマに阪神が優勝すると大阪は、天神祭りとだんじり祭りにリオのカーニバルのミックス焼きのように炎上してもうた。
 ミナミのえびす橋から道頓堀川に飛び込むファンが続出、近くのケンタッキー・フライド・チキンのカーネルおじさん人形も「バースの代わりや」と胴上げされ、川に投げられたんやった。

 

 それから3年後の1988年・昭和63年のことや。
 未だ阪神の優勝の熱気が冷めてない大阪の道頓堀でやなハリウッド映画の撮影が、行われるなんて誰もが「ウソやろ」と信じて疑わなかったもんや。
 東京やなく大阪で撮影するアメリカ映画?
 しかもパラマウント映画?
 ホンマけ?
 主演が『ウォール街』('87)でオスカーを獲ったマイケル・ダグラスやがな。
 共演は日本最大のスター高倉健
 ほいでもってアクション俳優から演技派に転身した松田優作にやな、『子連れ狼』の若山富三郎、しぇけなべいべーなろけんろーらーの内田裕也、オッケー牧場のガッツ石松、パチパチパンチの島木譲二、ホタテマンの安岡力也、日本のリプリーな小野みゆきから『八甲田山』の神山繁らが共演や。
 「なんやこれは!?」

 
 

 大阪は本音の町、まどろっこしい飾りはいらへん。
 でかくて派手好き、人情に厚くゼニには厳しいのが大阪人
 「もうかりまっか」「ま、ぼちぼちでんな」が挨拶がわりの商人の都。
 「こんな大阪を舞台にしたアメリカ映画ってどんなんや?どうせ日米のサラリーマンの交流を描いた人情もんとか、国境を越えた恋話やろ。」と大阪の民は勝手に物語を信号の色が変る寸前に動きだすという大阪人特有の「いらち、せっかち」な性分で、映画のストーリーを決め付けとったが、実際は全く違っとってなんと大阪に逃げ込んだ凶悪な殺人犯のニューウェイヴ・ヤクザを追うN.Y.の汚職刑事が、大阪の刑事とタッグを組んで追跡。
 それに地元ヤクザ組織との三つ巴の戦争や!
 この内容が大阪中に伝わるとまるで阪神が優勝した時のように、街中熱気に包まれ、シャウトしたんや。
 そんな興奮の炎にさらに油を注いで炎上させたんは監督がリドリー・スコットっちゅうことや。
 これで大阪の民衆は「おおお! お好み焼きと吉本新喜劇の匂いで充満しとる大阪の街が、サイバー・パンクな『ブレードランナー』になりまっせ!」

 あのリドリー・スコットが大阪で撮影中の頃から、我々NANIWA SOUNDTRACK BOYS「一体、誰が音楽をやるんや?」と興奮していた。
 通天閣のジャンジャン横丁でけつねうろんに七味をぶっかけながら、「ヴァンゲリスの幻想的なシンセサイザーの雨が、大阪の夜に降り注いだら!」と考えただけで鼻からうどんが、飛び出しそうやったが、「それはムリだっせ。」で一致。
 夜は夜で難波にある角屋食堂で串カツ(ソースの二度づけはアカン)の串で占いながら、「そうやスコットはんが、頭下げてやな、ジェリー・ゴールドスミスに決定でどうや!」と吠えるもこれも阪神が3年連続優勝する以上にムリな話やった。
 『ブラック・レイン』のプロデューサー陣とマイケル・ダグラスは大ヒット作の『危険な情事』('87)でも組んでいた。
 そのヒット作品の音楽はヴェテランのモーリス・ジャール。
 彼は1980年代に入るとまるで別人になったように、シンセサイザーでサウンドトラックを染め上げていた。
 特に『危険な年』('82)ではオリエンタルでエキゾチックなシンセサイザーを披露。
 この『ブラック・レイン』も「自然とジャールでキマリやろうな」と納得したNANIWA SOUNDTRACK BOYSやった。

 
 

 

 実際、当初はジャールに話が行って彼もやる気になっとったそうやが、リドリー・スコットが、編集中に『レインマン』(88)の音楽に感激したスコットの鶴の一声で新鋭ハンス・ジマーに決まった。
 ジマーは1957年、西ドイツで生まれたドイツ人。
 10代の頃、イギリス・ロンドンへ移住。
 イギリスのニューウェイヴ・レーベルZTT・レコードのトレヴァー・ホーンに師事してシンセサイザー・ミュージックを身に着け、『ディア・ハンター』('78)の映画音楽家のスタンリー・マイヤーズに弟子入り
 弟子時代に映画音楽を学んで、師匠と共に『O嬢の物語 第二章』('84)、『マリリンとアインシュタイン』('85)、『漂流者 ふたりだけの島』('87)等のサウンドトラックを担当。
 また『ラスト・エンペラー』('87)にも参加。
 師匠の元を離れてからは『ワールド・アパート』('88)、『レインマン』でまるで『ブラック・レイン』のようなエキゾチックで幻想的なシンセサイザーを駆使したサウンドトラックで魅了する映画音楽界のニューウェイヴが誕生したんやった。

 

 『ブラック・レイン』では琴、尺八等の日本の楽器を大胆に取り入れ、パーカッション、シンセサイザーを多用したエレクトリック・ミュージックでリドリー・スコットを満足させた。
 まるでもう一つの『ブレードランナー』('82)のサウンドトラックのように。
 また厚みのあるオーケストラはシャーリー・ウォーカーでジマーを援護射撃。
 濃厚な老舗「ふじ」のソースのような味わいとなった。
 スコット作品の特徴として派手なヴァイオレンス・シーンの後の静けさ、泣きの音楽が聴こえて来るのが魅力の一つ。
 『ブレードランナー』でもレオンの射殺の場面の後のラブ・テーマが流れる絶妙のタイミングのように『ブラック・レイン』でもチャーリー惨殺の後の朝焼けの大阪城に流れる静かなテーマ曲のアレンジに泣けますがな。

 

 ジマーとスコットはその後も意気投合。
 続く『テルマ&ルイーズ』('91)、『白い嵐』('95)にも協力して『グラディエーター』('00)、『ハンニバル』('01)、『ブラック・ホーク・ダウン』('02)、『マッチスティック・メン』('03)等で組んでおり、今ではハリウッド映画音楽界のドンになりましたがな。

 1972年に誕生したイギリスの個性的なレーベルVIRGIN
 先のイギリスの老舗レーベルのEMIが、1980年代に入るとアメリカに進出して、EMI AMERCAを発足して好セールスを記録。
 それに続けと人気専属アーティストを引っさげて、1987年にVIRGIN AMERCAが誕生。
 そんなVIRGINは自社でリリースしたエンニオ・モリコーネの『ミッション』('86)のサウンドトラックの大ヒットにより「映画音楽はいいビジネスになる」と同年、映画音楽専門レーベル・VIRGIN MOVIE MUSICを立ち上げ、モリコーネの『ランページ』('87)、デヴィッド・マンスフィールドの『シシリアン』('87)、エリック・セラの『グレート・ブルー』('88)、マーク・アイシャムの『モダーンズ』('88)、ジョルジュ・ドルリューの『サマーストーリー』('88)、エリック・クラプトンの『ホームボーイ』('89)、ジェームス・ホーナー(追悼…)の『レッド・ブル』('88)等のサウンドトラック・アルバムをリリース。
 そして1989年の目玉リリースが、『ブラック・レイン』。

 

 リリースされたアルバムのエグゼクティヴ・アルバム・プロデューサーは、リドリー・スコット自身。
 そんなスコット入魂のアルバム(LPの)Aサイドは、クラブ・ミヤコで流れるナンバーを中心としたVIRGINのアーティスト達のイギー・ポップ、UB40、坂本龍一、レ・リタ・ミツコ・アンド・スパークスに加えてSOUL II SOUL。
 Bサイドがグレッグ・オールマンの主題歌とハンス・ジマーのスコア・サイド。
 ジマーのスコアは全てが収録されていないが、主な曲を巧く組曲で収録
 この時代にありがちな全てがソング・ナンバーでスコア無し!の虚無的な内容では無い。

 

 アルバムのクレジットを見るとスティーヴ、ジェフ、マイク・ポーカロのTOTO・三人衆、ユーッスー・ン・ドゥール、『ブレードランナー』のオーケストラ・ヴァージョン・アルバムに参加していたイアン・アンダーウッドらの名スタジオ・ミュージシャンらがクレジット。
 特筆すべきなのは主題歌を歌うグレッグ・オールマン。
 彼は1970年代、サザン・ロック、ブルース・ロックの最右翼のオールマン・ブラザース・バンドの名ヴォーカリスト。
 1974年の名ソロ・アルバム「ライブ」等があるが、決してチャートにヒット・シングルを毎年リリースするような、誰でも知っているようなコマーシャル・アーティストでは無い。
 そんな通好みの実力派のオールマンが歌う「I'LL BE HOLDING ON」は勿論、ジマーの曲であり全編に様々なアレンジで流れるテーマ曲
 この激シブのロッカ・バラードには男泣き、むせび泣いたもの。
 心斎橋の立ち飲み屋では「なんや、柳ジョージかいな?」と泥酔客は聞き間違って、さらに酔い「どうせやったら上田正樹に歌わせや。」とさらに焼酎をオーダーする位、どこか日本的であり、浪花節的な響きがするんやがな。
 ちなみにアルバム未収曲としてホビー・ダーリンの「BEYOND THE SEA」、『ブレードランナー』にも使用された「OGI NO MATO」等がありまっせ。

 

 当時リリースされたのはCD・LPでアメリカ、ドイツ・プレスのユーロ圏用、イタリア、表裏ジャケが少し異なる日本、韓国等でリリース。
 日本はCDのみだったが、世界で唯一CD・シングル、プロモのみの激レアとしてアルバム・サイズの主題歌のプロモCD、スコアを収録したこれもプロモ用のカセット・テープが存在。
 2000年代に入ると数多くのジマーのスコアのみを収録したブートレッグ・CDが、大量に出回った。
 まるで『ブレードランナー』のように。
 どれもが音質がイマイチだったが、ジマーのスコアが多く聴けるのが魅力だったもの。
 でも完全収録ではなかった。

 
 
 
 

 

 2012年に遂にオフィシャル・2CD・SETがLALA-LANDよりリリース。
 初めて聴ける主題歌のメイン・タイトル・ヴァージョンや別テイクのスコアも大量に収録されていたが、これも完全盤ではない。
 ラスト・シーンの「NICK AND MASA」の本編ヴァージョンや予告編のDEMOヴァージョンが未収であり、これらが収録されていたら完全だったんやけどね。

 
 1989年のSOUNDTRACK ALBUM OF THE YEARの『ブラック・レイン』。
 今では松田優作、若山富三郎、安岡力也そして高倉健を忍んで聴くと昨日とは、違った味わいで聴こえてくる。
 さらにリアル・タイムからオールマンの唄う「I'LL BE HOLDING ON」は、孤独にむせび泣き、想い出に心を閉ざし、明日が見えないときにヴォリュームを上げて聴きつぶれる真夜中の応援歌となっている上、あの世に旅立った『ブラック・レイン』組の日本の役者達のバラードとして、今夜も聴きつぶれる。

 「健さんは、本当にスゴイぜ!」
 松田優作が撮影取材していた、心を許している唯一のライターに、興奮気味に語った。
 加えて「健さんの価値を的確を本当に知っているのは向こうの連中だと思う。あそこまで自分の事を考え、きちんと仕事を出来る人が、健さん以外に誰がいる?あの人と仕事するのは本当に楽しい。あの人は無口だけど、肝心なことは分かっているんだ。
 松田優作は、ライター曰く「人一倍嫉妬心が強く、自意識が過剰な男」
 しかし健さんに対しては、製作発表の場でも「尊敬していた健さんと、アメリカ映画で共演できるなんて!」とまるで少年のように話していた。

 

 そんな優作と健さんの現場は、日本映画と全く違って何十回と同じ場面を撮り直し、その都度違った演技を要求するこだわりの監督と演出から演技にも口を出す凄腕プロデューサー陣。
 脚本通りには撮らず、毎日脚本を変更してしまう現場。
 加えて俳優陣には、平気でアドリブを要求。出来ないとなると「何故出来ない? 君は俳優だろ?それでギャラを貰ってるんだろ。」となり、とうとうギヴアップした日本の俳優が居たという。
 健さんと優作は、要求通りにこなしていたが、アメリカのスタッフは優作に聞こえるように「やれやれ日本の役者はこんなもんか。」と吐き捨てるように言ったという。
 そんな時、優作は「健さんだけだぜ。」と呟いた。

 

 そんな健さんだがオファーを受けた時、沖縄の小島で休養中。
 送られたシノプシスを読んでみると当初の脚本の松本警部補は「定年間近の窓際刑事の上、アル中のズッコケ・コミカル刑事」だった。
 健さんは断ろうとし、沖縄まで飛行機をチャーターしてまでも会いたいというリドリー・スコットとプロデューサーのスタンリー・ジャッフェに、直接会って断るのが筋として東京まで出向き、「これは私の役ではない。でもこの役に相応しい男を知っている。それは勝新太郎だ。」と健さん。
 「そんなこと知るか!」とスコットは「あなたとマイケルを同じフレームで撮りたい。」と殺し文句。
 そして満面の笑顔を浮かべて立ち上がり、健さんに手を差し出す。
 つられて健さんも立ち上がって、その手に握手するとその両手をプロデューサーが、上からがっちりクロス。
 これで健さんの出演が決まった。
 のちに健さんは、「あれはあの監督の持つ「気」ですね。撮影期間もギャラも決めずにパッとなんとなく。」
 勿論、健さんのパートは大幅に修正された。
 何でもスコットは『エイリアン』('79)の船長にも健さんを起用したかったという(余談だが撮影のヤン・デ・ボンが監督予定だった『ゴジラ』でもデ・ボンは、健さんに特別出演を要請する気だったらしい)。

 
 

 「これからは松田君の時代だ。」と公開前に語った健さん。
 そんな松田優作は、1989年11月6日永眠。
 優作にとって幸せだったのは、執念で撮影を乗り切り、完成版を自身の目で確認出来たこと。
 優作の葬儀後、しばらくして健さんは優作邸を訪れ、渡す予定だったプレゼント用のローレックスの時計を美由紀夫人に手渡した。
 まるで映画の中でアンディ・ガルシアの遺品をマイケル・ダグラスに手渡したように。

 「じゃぱん あず なんばーわん」
 1979年に出版された、アメリカの学者の著書には戦後の日本経済の高度成長、日本的経営法を高く評価しておりベストセラーとなる。
 その頃から日本は「世界でなんばーわん」と確信していた。

 

 

 それから10年後の1989年の日本は、バブル経済の頂点
 同年9月にはソニーがアメリカのコロンビア映画を買収、10月は三菱地所がアメリカのロックフェラー・センタービルを買収しており、誰しも夢が叶う、毎日MTVを観て過すような時。
 そんな時に『ブラック・レイン』が公開。
 一見、ハリウッド・マネーの力を見せつけ、大々的に日本ロケを施したエキゾチックなアクションと軽く観た人々が大半だったが、実際は「日本の老舗ヤクザ組織が偽ドル紙幣を大量生産して、アメリカ経済を混乱させて過去の怨みを晴らそうと暗躍。そんな利権を奪おうとする新興ヤクザを追い詰める、日米の刑事達の三つ巴の戦争をバックボーンにして、モラルも男の誇りを失っていたN.Y.の汚職刑事が、日本で自分を取り戻す道も描いたクライム・サスペンス」。
 主人公のマイケル・ダグラスは、当初日本人をバカにしており、日本を理解せずに常に上から目線の悪態つき放題。
 自分のミスを無かったことにして、松田優作を追い詰めるのは何も正義の為ではなくて、アメリカでのフラストレーションの怒りをぶつけるかのように、優作を追う。
 でも相棒のアンディ・ガルシアを惨殺されて、反発していた健さんの力を借り、諭されてから自分の非を認めます。
 彼は日本を去る時、ようやく警官としての誇りと男を取り戻します。
 でもこんなドラマも当時のロケのご当地、大阪の民には「どうでもええやんけ!」のようだった?

 
 

 『ブラック・レイン』は決してコメディ映画では無いのに、大阪の上映館、特に梅田、難波はドッカン、ボッカンと笑いが巻き起こっていた。
 道頓堀のグリコ、阪急デパートの前や大阪城、十三、京橋のグランシャトーが、映し出されると、その笑いはさらに大きくなり、島木譲二、チャンバラトリオの伊吹太郎がアップになると「もうええて!」と叫び、ダグラスとガルシアが、道頓堀から歩いてホテルに向かうとそこは十三に辿り着くシーンでは「お前ら何処歩いとんじゃ!」とツッコミまくる。
 クライマックスの寒村の時は「え?何処ここ?千里山?富田林?羽曳野?分かった瓢箪山!」とボケるのも絶妙な大阪の民。

 

 思えばロケが始まってから、毎日の様にテレビのローカル・ニュース、スポーツ新聞で毎日の様に「今日の『ブラック・レイン』のロケは...」と賑わい、特に大阪府庁でのロケの時、「職員の邪魔だけはせんといて」と釘を刺されていたのにも関わらず、リドリー・スコットが、景気よくスモークを焚き過ぎて、火災警報器が鳴り響き、消防車の軍団に取り囲まれる!という爆笑ニュースは、大阪の民衆なら誰しも知っていたもの。
 またロケ先のトラブルも同様、道頓堀では警察が激怒して「あ゛ーっ、カメラをそんなのとこに置いたらアカンがな! 電車の始発までには撤収してや!」とかの話も有名。
 映画自体はダークで暗い陰気なクライム・サスペンスなのに、大阪の民には「異色のお笑い映画」と感じていたのだろうか。

 
 

 公開中はフジテレビの「夜のヒットスタジオ」にグレッグ・オールマンが主題歌を披露したという話もあるが、公開中に突然の松田優作の訃報が、飛び込むという驚愕の大雨も降り注いで、この年のヒット洋画ベスト10の5位を記録。
 また特に忘れられないのは、公開中にとある大阪の大学で凄惨な事件が起きた。
 その大学の学生が、日頃からトラブルのあった購買部の中年男性を拉致監禁後、椅子に縛り上げてナイフで惨殺するという事件。
 直ぐにその学生の犯行と分かったが、彼は既に国外に逃亡していた。
 しかし数日後、帰国して自首
 その自首した理由とは「逃亡先のハワイで『ブラック・レイン』を観て自首する気になった。」という。
 彼は映し出された大阪を観てその気になったのか、健さんに男の道を説かれたダグラスに自分を投影したのか。

 
 「深作欣二の「道頓堀川」のえびす橋と『ブラック・レイン』のえびす橋は、全くちゃうやんけ。」と感激していた大阪の民衆。
 公開から少し経過すると移り気な大阪の民は、『ブラック・レイン』のことなどすっかり忘れていたが、ツーカーホン関西のCM(関西限定)で、なんと『ブレードランナー』のハリソン・フォードが道頓堀をチャリンコで疾走。
 さらに近くの煙モクモクの金龍ラーメンを食べる!(「ブレードランナーやんけ!)のCMを観て『ブラック・レイン』を思い出し2010年代のWOWWOWのCMでは松田優作の遺児、龍平がロバート・デ・ニーロと共演。
 亡き父の果せなかった夢を代わりに果す。