ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...
再び1974年・昭和49年 − レッド・サンに照らされて、活気溢れて、聞こえて来る♪さるっエテコっちんぱんじっ♪(一部の地方ではエテコでは無くゴリラ)の大合唱。 そう、『戦場にかける橋』のクワイ河マーチに合わせて歌っての大行進は、当時の幼稚園、小中学校の体育の時間や運動会シーズンにピークを迎えていた。 「さあ!4年A組の入場です!」とボギー大佐の大声に刺激されて、あまりに元気良く行進して、誰か「編隊っ止まれ!」と叫ばないと、琵琶湖まで行進してしまいましたがな(でも「誰が変態やねん!?」とツッコミも入れてましたけど)。
当時の体育や運動会の行進曲は決まって映画音楽だった。 『大脱走』に『史上最大の作戦』や『パットン大戦車軍団』『ナバロンの要塞』等のマーチ曲、戦争映画の曲だ! 第二次世界大戦の勝ち戦映画の曲だから、威勢・景気のいいこと。 今では考えられないが、こんなマーチ曲で行進すると子供でも勇気リンリン!ドドメ色になるのだ。 どれだけ右翼やねん!と言われても、運動会の行進の練習でちょっとでも列が乱れると、先生は「貴様らッ!それでも帝国軍人かッ!」と鉄拳制裁が飛んできたものでした。 何が言いたいかと申しますと、こんな運動会・体育の授業にも映画音楽が使用されて浸透しており、男児はいわんや幼稚園・小学校の女児でも戦争映画の曲を知っていたのであります。
映画は雪に覆われた、フランスの片田舎を舞台にして起こる殺人事件。 ある一家を取り仕切るおっかさんと、事件を担当する判事との人間ドラマ。 雪が降り注ぐメイン・タイトルに被さるフランス・ヴァニエの女声ヴォーカリーズとミシェル・ジャールの悲痛なシンセサイザーが、混ざり合って素晴らしい効果を上げております。 ミシェル・ジャールは、時に不気味なエレクトリック・サウンドを駆使して、この雪山をさらに凍りつかせるスコアを聴かせますが、フランス映画でこんなに大胆にシンセサイザーで塗りつぶしたようなサウンドトラックは初めてだったのでないでしょうか。
当時ミシェル・ジャールは、若干25歳。 16歳で初めての映画音楽「DES GARCONS ET DES FILLES」を発表。 その後、他のアーティストらに曲を書いたり、映画でも使用される自身の曲「ZIG ZAG」などを発表。 映画を世界配給するFOXと契約した為か、この『燃えつきた納屋』のスコアを担当しました。 その後、自身のアルバム『幻想惑星』『軌跡』がベストセラーとなり、フランスを代表するシンセサイザー・アーティスト、プログレッシヴ・ロック界の人気者となりました。 ミシェル・ジャールは、数多くの映画音楽のオファーを断った理由として「映画音楽は、あくまで音のイラストとして頼まれる。たとえばわずか3週間前になって、こんなシーンにこんな感じの曲をと…」と答えていました。 彼の言葉から映画音楽は、自分には合わないと感じられます。
ミシェル・ジャール唯一のサウンドトラック・アルバムは、フランスのEDENからシングルと共にリリース。 イタリアでもアルバムがリリースされましたが、日本ではPHILIPSよりシングルのみのリリースでした。 当時、アラン・ドロン主演作ならアルバム・シングルが、よく売れる時代ではありましたが、遂にアルバムはリリースされませんでした。 恐らく権利金が高かったか、このシンセサイザー・ミュージックのアルバムでは売れはしまい?と判断されたのか…
1974年・昭和49年最大の話題作にしてメガトン級の大ヒット作『エクソシスト』の音楽・サウンドトラックのリリース等は、以前(第35回)でも述べましたが、今回はそのAFTER HOURSということで。 当時、近所の駄菓子屋で10円を握り締めてその小さな欲望を満たそうとする小僧でも知っていた『エクソシスト』。 そのテーマ曲もまた、天地真理ちゃん自転車で暴走するさくら組の女児も知っていたもの。
若き20歳の新人ミュージシャンのマイク・オールドフィールドのデビュー・アルバム『チューブラー・ベルズ』を本人には無断で使用した為に大きな問題を引き起こしたのは、今では伝説の神話。 未だサウンドトラック・アルバムがリリースされていない時にいち早くカヴァーしてMUSICORからリリースしたのは、アメリカの名アレンジャーのリチャード・ヘイマンでしたね。 日本でも一番乗り!でシングル・アルバム(他に『パピヨン』『セルピコ』『追憶』等)がリリースされて、特にシングルが大ヒットしました。 その後、あのミスティック・サウンドのシングルもリリースされて、その年のサマー・シーズンは何処もかしこもチューブラー・ベルズが鳴り響いておりました。
カヴァー・ヴァージョンも多く、我が国のフィルム・スタジオ・オーケストラが気合を入れて演奏。 そのアルバムは、堂々と『エクソシスト』のリーガンのジャケットで話題になりました。 映画公開もようやく落ち着いてきた9月にはようやくマイク・オールドフィールドのオリジナルが、「これが本命!」とシングル・リリース。 でも大半の方は先のワーナー・ミスティック・サウンズのシングルを購入しておりました。 それでも健闘して売れ、イタリアでも堂々とジャケットを『エクソシスト』にしたバージョンでリリースされております。
この曲を気に入り、使用を決めた監督のウィリアム・フリードキンの鬼才ぶりはその後もさらに際立つのですが、この曲を愛した我々も大したもの。 自分で自分を褒めて評価してもいいのではないでしょうか。
『エクソシスト』関連のアルバム・シングル等は数多く存在しますが、中でも非売品・ボックス・セット付録のVICTORのシングルが、ジャケットと共に貴重だと思います。
♪ジャスコで万引き!イズミヤで食い逃げ♪ …とローカル・スーパー・ジャスコのテーマ・ソングの替え歌を麗しくも唄いながら、中学2年生のX君は1974年・昭和49年の8月、話題の『エクソシスト』を鑑賞後、京橋のとある京阪モール前を颯爽と歩いていた。 その日はうだるように暑くて、まるで『ダラスの熱い日』のようだった―
X君は、我々小僧達が居住する名も無きローカルな下町に同じく住む年上の男子。 何故か彼は年上のせいか我々を見下し、いつも上から目線のまるで太陽の塔のごとくに我々小僧達の教育係(自称)として生きていた。 彼は「映画っちゅうもんは、朝イチの回で観るもんやない。ワイは最終回より前の回の夕方17時の回で観るんやで!」と待望の『エクソシスト』を一人で鑑賞しに行った。 余談だが、彼のとうちゃんはタクシー運転手、かあちゃんは近所の豆腐屋で働き、高校3年のアネキはグレていた。
そんなX君は、映画鑑賞後京阪モール前で運悪くスケバン二人組のカツアゲに遭遇、公衆トイレに連れ込まれた。 「カネ出しな!」 「アタイたちに逆らうんやないよ!」 と恐らく、当時で言うなら池玲子や杉本美樹のような東映・スケバンであっただろうか。 必死にX君は抵抗し、「ボ、ボク、お金なんかありません!」と半無き状態。 「映画の帰りならカネあるだろうが!」と恫喝されても何とか逃げ切れると思った矢先、彼女らの番格が登場! 長髪のキレイな髪の松島ナミ! いや梶芽衣子のようなスケバンに 「ケガしたくなかったら、よこしな!」 と薄っぺらな学生カバンの中からスパナ(!)とプラス・マイナスのドライバーを突きつけられて、観念したという。 有り金を取り上げられて、買いたての『エクソシスト』のプログラムも巻き上げられたという(キャンディーズのラン、ミキ、スーちゃんみたいなスケバンならよかったのに、現実はこんなのもの)。 帰宅後、悔し泣きで連日眠れず、親兄弟にも打ち明けられずにおり、この日の事は墓場まで持っていくつもりだったが、何故か1週間後には近所のオバちゃん達の夕刻の井戸端会議の格好のネタとなっていた。
その年の冬X君は、我々に「ワイは今度の日曜日、森小路ミリオン座でアラン・ドロンの『暗黒街のふたり』と『燃えつきた納屋』を観にいくんや!」と自慢げに言い放ったが、何でも映画館のトイレで手を洗っていたら、「なあ、なあ!ええやろう!」と小太りのホモおじさんに個室に引きずりこまれそうになったという。 必死でその場から逃げる際、ホモおじさんは 「おっちゃん、スケベな写真いっぱい持ってるで!」 と叫んでいたという。 こんな珍事、口が裂けても言うまい!と誓ったX君だが、1週間後、我々の利用する駄菓子屋のオバちゃんから詳細を教えてもらった。
それから1年後、X君は京阪電車の天満橋にあるデパート、松坂屋の最上階にある中華料理店『龍門』で唐揚げを揚げて働いているという風の噂を聞いた。 あれから40年が経過した今、都会の雑踏の中、携帯電話の着信音でチューブラー・ベルズが鳴り響きハッとして振り返ると、確かにあの日の下町の夕方に戻ってしまう。