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Goodfellas House Choose One!
 

ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...

Death Wish
主演 スティーヴ・マックィーン
ダスティン・ホフマン
監督   フランクリン・J・シャフナー
音楽   ジェリー・ゴールドスミス
 
 1971年・昭和46年、ドル・ショックによる世界経済悪化!
 そして学費の値上げによる暗黒の時代に突入。
 さらに1973年(昭和48年)に起きたオイル・ショックによる物資不足、生活不安!
 ダメ押しに同年10月に起きた信越化学直江津工場塩化ヴィニール・プラント爆発事故はレコード業界を震撼させた。
 これがレコード・ショック
 紙不足でジャケットが作れないわ、レコードは塩化ヴィニールが原料なのでプレスが出来ないわ。
 嗚呼、もうあきまへんがな!
 

 で、その年を終え、1974年(昭和49年)に突入すると、少しずつ希望の灯りが点灯した。
 そう!ラロ・シフリン『燃えよドラゴン』のシングル盤が爆発的に売れ始めたのだ。
 続くジョセフ・クーによるブルース・リー・シリーズのアルバム・シングルも小中高校生がこぞって買いあさり、同時期にはジェームス・W・ガルシオ『グライド・イン・ブルー』ジョン・ウィリアムス『シンデレラ・リバティ』エンニオ・モリコーネ『エスピオナージ』マーヴィン・ハムリッシュ『追憶』『スティング』等の最高の映画音楽が話題を集めて好セールスを記録、オイル・ショックの黒い霧を消し始めていた。

 

 Yeah!
 最高の映画音楽の年、YEAR OF THE FILM MUSIC幕開けだ。
 そんな3月から8月にかけての作品時代の大ヒットと音楽面でも数々のカヴァー・ヴァージョンを生み、もう日本中の爺ちゃん、婆ちゃんからオトンにオカン、近所のスケバン女子高校生、ワンパク小僧も聴き惚れ、酔いしれたのがスティーヴ・マックィーン主演、ジェリー・ゴールドスミス作曲の『パピヨン』だ。

 

 『パピヨン』は劇場での大ヒットに比例してサウンドトラックのアルバム、シングルも記録的なセールスと共にレディオのFM、AM(ユア・ヒットパレードby文化放送)でも流れに流れて、地元商店街でも高らかにテーマ曲が流れてまるで大空を舞う蝶のよう。
 この映画音楽の底知れぬパワーはさらに暑い夏を炎上させた。
 『エクソシスト』「チューブラー・ベルズ」(by マイク・オールドフィールド)が悪魔も逃げ出すスーパー・ヒット。
 文科系男女の涙を誘ったのはジョルジュ・ドルリュー『イルカの日』
 「おいおい映画音楽はこんなにも熱かったの?この火照った体をどうしてくれるの!?」と昼は予備校、夜はネオン街の蝶に変身する近所の19歳のねえちゃんが喘ぎながら囁く年の暮れ、ピエール・バシュレ『エマニエル夫人』の登場でねえちゃんの理性は崩壊した。

 

 …おっと、話を戻そう。
 この1974年(昭和49年)中、『パピヨン』は集団下校する黄色い帽子と重いランドセル姿の小学生達が、リコーダー笛でテーマ曲を吹く位の立派なスタンダード・ナンバー化していた。
 正に『パピヨン』の年だったのである。

 ジェリー・ゴールドスミスが作曲した『パピヨンのテーマ』は、なぜかフランスのパリを想わせるシャンソン・タッチ。
 シャルムな甘いメロディをミュゼット・アコーディオンが歌い上げていく。
 映画には一度もパリは登場しない。
 灼熱の南米ギアナなのにテーマ曲を聴くとパリが恋しくなるのは何故だろうか。
 それは主人公のパピヨンことアンリ・シャリエールは、パリのモンパルナスのヤクザ者だった。
 そんな彼は身に覚えの無い殺人罪で終身刑を受けて南米ギアナに島流し。
 もう生きてあのパリには戻れない!
 そんな時にこのパリの匂いがするテーマ曲が、要所要所に流れると、パピヨンの自由に対する強い思いや、ノスタルジアが痛い位に伝わってくる。
 これはきわめて計算されたゴールドスミスの作曲によるものだった。

 

 『パピヨン』はフランシス・レイの『ある愛の詩』('71)や『ゴッド・ファーザー』('72)に迫る数多くのカヴァー・ヴァージョンを生み、1974年の映画音楽界の大ヒットを記録。
 数々のオムニバス・アルバムのジャケットを飾り、レコード・ショップは『パピヨン』を置かないショップはモグリだ!とまで言わしめた。
 そんなカヴァー・ヴァージョンで人気を集めたのは、パピヨンの故郷フランスからの華麗なるレーモン・ルフェーヴルフランク・プゥルセルカラベリらの演奏だ。

 
 

 彼らは持ち味の華麗なるパリの香りをさらに強調させてまるで三つ星レストランのメニューのようなテイストで酔わせてくれた。
 彼らの演奏はシングル・カットもされて売れに売れた。
 特にフランク・プゥルセルのサウンドトラック・ヴァージョンとは異なるシャンソン・タッチは一度聴くと忘れられない。
 そんなフランス軍団に負けじと我が国産、ジャポン・オーケストラもフィルム・スタジオ・オーケストラアンサンブル・プチとスクリーン・ランド・オーケストラ(a.k.a. バリー・スティーブンス・オーケストラ)も参戦。
 中でもアンサンブル・プチがリリースした豪華なハード・ジャケットに包まれた6曲入りのEPは、他に『ゲッタウェイ』『ダーティハリー』『ゴッドファーザー』『ビッグ・ガン』『燃えよドラゴン』を収録した、まるで「男の参考書」としてリリースしたのは大いに評価をしたい。

 
 
 ヴォーカル・ヴァージョンではエンゲルト・フンパーティング、味の素なムーン・リヴァー・おじさんのアンディ・ウィリアムスらがズバ抜けてヒット。
 特にアンディはあのソフトな歌声で日本語ヴァージョンも披露。
 「イチワノチョウチョガ アシタへハバタク!」だもんね!
 ヴォーカルは「FREE AS THE WIND」として様々なシンガーによってカヴァーされた。
 日本のイケメン俳優の鹿内孝も田舎から出て来た純情なOLねえちゃんをたぶらかす甘い歌声で日本語でカヴァーしたけどさすがにアンディ、エンゲルトを聴いた後ではねえ。
 この1974年はどのファミリーでもステレオ・セットを購入しており、ファミリーでレコード・音楽を愉しむ!がステイタスでもあった。
 おとうちゃんが夏のボーナスでステレオ・セット、坊ちゃん、嬢ちゃんの入学祝いに婆ちゃん、爺ちゃんから豪華なステレオ・セットをプレゼントという具合に。
 そんな時、迷わず買って聴く映画音楽が『パピヨンのテーマ』であったのは間違いない。
 それだけ親しまれた、刻まれたのが『パピヨンのテーマ』だった。
 
 

 時は流れて1988年。74年には存在しなかったCDなる小さなシルヴァーに輝くディスク。
 この年イギリスのSILVA SCREENが世界初のCDをリリース。
 さらに2002年にフランスのUNIVERSALが14曲+1曲の未収録曲を増やしてCDをリリース。
 『パピヨン』のCDはこれで終わりかと思いきやこの後、ルイ・ドガの悪魔島からココナッツの実が届いた。
 中身を開けると何と!16曲に増補されたCDではないか。
 そう、あの脱走のバックに流れていた囚人が奏でる曲や「Gift From The Sea」のフィルム・ヴァージョン等、フランス盤より曲が多くといい内容だった。

 

 さすがはドガ!と感謝した数年後もドガからの贈り物だ。
 今度は18曲入りの完全仕様のCDだ。
 あの蝶の商人のラジオの曲やパピヨンとドガの病院のバックにかすかに流れたテーマのアレンジ等、とにかく本編に流れる小さな曲までも網羅した最高の内容だった。
 これらの特殊なCDは主にサン・ジョゼフ、サン・ローランなどでドガ経由で流れて来たもの。
 「ココナッツを貰ったな?(何処から)誰に貰ったか言え!」と詰問されても誰もパピヨンの様に口を割らないのである!

 

 監督のフランクリン・J・シャフナーによると「ゴールドスミスは映画音楽家としてどんな要求にも応じることが可能であり、その音楽はひとつの音楽作品としても立派なもの」と評する。
 1974年に聴いた『パピヨンのテーマ』は、2014年に聴くのでは大いに違う。
 今ではあの時のノスタルジーは勿論、遺灰を大海に蒔いたスティーヴ・マックィーン、マックのあの顔が嫌でも浮んで来てパピヨンのキャラクターと一体化してしまうのだ。

 「悪魔島よおさらばだ!ついでに駄菓子屋もおさらばだ! (学校から)脱走できるか!このままくたばるか!」と1974年(昭和49年)をSurviveした小僧は、『パピヨン』に感化され、この世に生を受けて10年も経過していないにも関わらずにスティーヴ・マックィーン魂を受け継いだ!?
 この時期、ノストラダムスの大予言とやらで「1999年に空から恐怖の大王が降って来て全世界は滅亡!」と本気で信じ込んでおり、将来大人になったら、グラン・シャトーで会社帰りに一息、ユニバースで明日への活力を貰って、「マツノモヨシ、マタセルノモヨシ」のカジノ・ド・サンノミヤで豪遊ついでに住之江ボート・レースで賭け事三昧!の大きな夢は絶たれていた。
 でも東映まんがまつり位の映画しか鑑賞した経験の無い小僧にとっては、『パピヨン』を鑑賞したのはもはや体験と呼んでも過言ではなかった。
 そう、これで大人への第一歩を歩んだ(その気になっていた)のだ。

 
 

 とにかくシネラマの湾曲したスクリーンに驚き、その大画面に繰り広げられるマックことマックィーンの不屈の魂に打ち震えて、海の青さに感動。
 さらにギロチンに「ひえええ!」、インディオ村の娘、ゾライマのほとんど全裸姿のオチチとヒップに「うへへへ!」ともう感動の嵐であった。
 我々小僧の聖域はせいぜい駄菓子屋、近所の公園等であったが、これからは映画館がその聖域になるのだった。
 それに海外の俳優の名前を知ったのもマックが、最初の一人になる。
 さらに近所の小僧達も映画を体験し始めて、ブルース・リーのドラゴン・シリーズにも熱狂する者が続出。
 我々のクラスでも休み時間にマックィーン、リーの名前を出すとちょっとした大人の気分だった。
 大抵、友達の中高生の兄貴の部屋には『大脱走』『栄光のル・マン』からのマックのポスターが貼られていた。
 もうマックを知る者としたら気分は、パピヨンだ。
 ひらかたパークのプールや琵琶湖で浮き輪で浮びながら、「ワイはパピヨンや!」とマックのように吠えたもの。
 振り返ればこの時期に『パピヨン』を体験出来た事が、その後の(大袈裟ながら)人格設計、価値観等を形成しのかも知れない。
 その後、学年を上がるごとに新たな友人の家に『パピヨン』のレコードを発見、「観た」との会話も嬉しくもあり友情を深めたもの。

 

 『パピヨン』鑑賞後、父親に買ってもらったサウンドトラックのシングル盤に「デッカイのもあるで!(LPのこと」)」のLP・アルバムは、擦り切れる位に聴いてボロボロになったが、未だに処分出来ない。
 今、ノイズだらけの『パピヨンのテーマ』を聴くとあの日に戻れて、あの日々や近所の小僧達の泥まみれの顔、夕食時に漂うカレーの匂いとあの去り難い、シネラマ劇場のロビーと共に美しい青い海に漂いながら、消えて行くラスト・シーンのマックの姿が、鮮明に浮かび上がる。
 実在のマックは死んだが、『パピヨン』のマックは生き続けている。
 そして我々も。

 ある夏の日突然、気がつけば我々は、不思議にもブロンドの女の子といつも遊んでいた。
 パピヨンがある日目覚めると目の前に楽園があり、魅力的なゾライマと毎日を過ごしたように―

 ブロンドの女の子の名前はセンリー
 何故か我々の住む平凡な下町にある日突然越してきた外国人の家族。
 アメリカ人か、イギリス人かあるいはオーストラリア人かは知らない。
 でも英語を話していた。
 彼女は我々より歳は、1、2歳年上だったはず。
 勿論、我々は英語なんて − でぃす・いず・あ・ペン − 位しか分からないし、彼女もまた、日本語を話さない。
 でも我々は不思議にも同じ時刻にもなると一緒にキャッチ・ボールをしたり、駄菓子屋に行ったり、公園で木に登ったり、ブランコで遊んでいた。

 

 センリーは我々の学校とは違い何処の学校へ通っていたかは知らない。
 その内、近所のオバちゃん達の井戸端会議で、センリー一家は近くのマンションに住んでおり、彼女のファーザーの仕事の関係で越してきたらしいこと、彼女は少し遠い学校に通い、歳の少し離れたブラザーが居るが、マザーは居ないと。
 さすがは近所のオバちゃん達、独自のCIAの様な情報のソースを我々に伝えて来たが、そんなことはどうでもよかった。
 センリーは、スラリと細い体に大きな目、そしてクシャクシャのブロンド。
 いつもニコニコと笑い、そしてオテンバ。
 時々砂を団子にしては我々小僧達の顔面に投げつけて笑い転げていた。
 その内、砂かけセンリー!と呼ばれるようになり、近所の男子は皆センリーの洗礼を受けていた。

 

 センリーは、駄菓子屋でいつもあの大きな目をクルクルさせて、製造年月日や賞味期限が完全に不明な怪しいお菓子や毒々しい色のゼリーなどを物色しては、おいしそうに頬張っていた。
 こんな時、子供同士にはもはや国境なんて存在していなかったのだろう。
 そしてセンリーはさすがにブロンド娘だけあって発育も良く、キャッチ・ボールの時、ゆったりめのTシャツから覗く、膨らみかけたオチチにドキリとしたもの。
 あの『パピヨン』のゾライマを見た時と同じ気分をこっそりと家に持ち帰ったのである。

 

 秋ごろになると我々は、日曜日になるとセンリーの家に行くようになっていた。
 決まってウィリアム・ホールデンのような彼女のファーザーが出迎えてくれて、我々にプラッシー、バヤリース・オレンジのジュースとナビスコ・クラッカー、ブルボンのホワイト・ロリータ、不二家のチョコ・メロディーなどを振舞ってくれた。
 彼女の部屋でボーリングのゲームやら知恵の輪?コインのゲームなどで遊んでいる時、決まってセンリーのファーザーは居間でレコードを聞いていた。
 その後、その居間に行き我々が音楽の知識を得た時に判明したのだが、ファーザーがいつも聞いていたのはサイモンとガーファンクルの『ボクサー』シルヴィ・バルタンの『悲しみの兵士』とかポール・モーリアの『恋はみずいろ』などを自慢のパイオニア・4チャンネル・ステレオで聴いていたのだった。

 
 そしてある日、いつも通りセンリーの家で遊んでいると、突然居間から『パピヨンのテーマ』が聴こえて来るではないか。
 その時、「この曲、知ってる!レコード持ってる!」とセンリーに向かって叫びたいのだが、コチラは英語が話せまへんのやった。
 鉛を飲み込んだ様な気持ちでセンリーを見ると彼女は、目を閉じて聴き入っていた(ように見えた)。
 

 ある冬の日、何故かセンリーの姿が見えなくなった。
 いつも同じ時刻頃には我々の近所に現れるのに。
 来る日も来る日もセンリーの姿は見えなかった。
 そして数日後、近所のオバちゃん達が「センリーの一家は突然何処かへ引っ越した」と我々に伝えてくれた。
 思えばセンリーを見たのは、ある大雨の夕暮れの時、彼女とファーザーが傘もささずに、駅から家に向かって走っているのを見たのが最後だった。
 そう、まるでパピヨンが、ある朝目覚めると忽然とゾライマの居る楽園が、消え去ったような光景が再現されたのだ。

 今でも『パピヨンのテーマ』を聴くとセンリーの笑顔が、ゾライマのオチチと素敵なデュエットとなり、瞼に蘇ってくる。