ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...
カーマイン・コッポラ
…ドン・マイケル・コルレオーネ… 1989年。 ネバダ州・タホ湖にあったコルレオーネの帝国は既に朽ち果て、彼のファミリーは再びニューヨークに拠点を移していたが、老境を迎えたマイケルにとってはタホ湖を離れた時からが苦悩の日々だった。 妻ケイとは離婚、そして二人の子供もケイが引き取っていた。 その間ずっとマイケルを苦しめてきたのは兄フレドーの一件。 それでも彼はまだファミリーのドンとして君臨しており、今ではバチカンのカトリック教会から聖セバスチャンの栄誉を与えられ、それを記念しての盛大な祝賀パーティが催されていた。
パーティに出席したケイは、なお黒い影を映すマイケルに危険を感じ、成長した息子アンソニーはマイケルに反旗を翻してオペラ歌手になると告げる。 祝賀パーティをきっかけに家族の溝を埋めようとしたマイケルだったが時の埋める事のできない深い隔たりをかみ締める。 しかしマイケルの唯一の心の安らぎは、娘のメアリーがファミリーの合法事業のコルレオーネ財団の顔として活動を始めた事だった。 そして妹のコニーが今ではマイケルの相談役として側に居ることも…
マイケルはファミリーを合法的にしようとバチカンをパイプにしてヨーロッパ最大の不動産会社にその手を伸ばそうとする。 しかしバチカン銀行は不正の穴埋めの為、マイケルの大金だけをせしめようとしていた。 実は聖域のバチカンも黒い霧に侵されていたのだ。 マイケルは苦悩する。 あのフレドーの姿が脳裏に浮かぶ。
自身の過去を清算しようとするマイケルだったが、再び過去に引き戻されるように感じたのが、兄ソニーの私生児ヴィンセントをファミリーに迎え入れてからだった。 不動産・銀行・ウォール街と、ファミリーのビジネスは合法化の道を進むが、そんな時、マイケルの暗殺未遂事件が起きる。 その命令を下したのはN.Y.を支配しようとしているジョーイ・ザザであると判断したヴィンセントは、父ソニー同様、頭に血が上った勢いでジョーイを消してしまう。 そんなヴィンセントにかつての兄の姿を見たマイケルは激怒した。
汚れなき神聖なるバチカンに触れようとしたマイケル。 しかしそのバチカンも曇っていた事を知るマイケル。 自分の人生とはいったい何だったのか? 今、本当に愛するのは子供達だと実感するマイケル。 おお神よ! 自分自身の犯して来た罪を許したまえ! アンソニーの出演するオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の上演が終わった時、神の無慈悲な審判が下された。 かつてのアポロニア、ソニーの悪夢がまたしてもマイケルに襲い掛かる。 この時、もうマイケルにはこの悪夢を跳ね返す余力は残っていなかった。 声にならない声で天に吠えるマイケル。 それはマイケルにとってもっとも残酷な答えだった。
すっかり年老いた姿のマイケルはかつてアポロニアと暮らしたシシリーの家の前でたたずんでいた。 彼は自身の想い出だけを抱きしめて生きている。 アポロニア、ケイとの幸せで楽しいあの日。 そしてあのメアリーの愛らしい笑顔。
太陽が眩しく感じたとき、マイケルの身体が崩れ落ちた。 ただ傍らで、黒い子犬だけが、彼の亡骸を見守っていたのだった。
PARTVの製作時、パラマウントにはかつてのPARTT・PARTU製作時の会長チャーリー・ブルードーンや、何かとコッポラにダメ出しをしたロバート・エヴァンズらは姿を消していた。 新社長のフランク・マンキューゾは会社の株価や売り上げだけを気にかけるビジネスマン。 彼は1980年代の初期からPARTVの製作に意欲を燃やしていた。 理由はただ一つ。 「金を稼ぐ」だ。
彼は何度となくコッポラを説得するが答えは常に「ノー!」だった。 そこでマンキューゾはとうとう「コッポラ抜き」で製作を決定し、様々な脚本家にシナリオを書かせたのだ。 あげくの果てに、1984年にはシルヴェスター・スタローンの監督・脚本・主演、共演ジョン・トラボルタでPARTVを製作すると発表した。 理由はこの二人が同じパラマウントの『ステイン・アライブ』でいい仕事をしたからに他ならない。 しかし空気の読めないマンキューゾもさすがに轟々たる非難を受けてこの愚考を撤回する。 そしてようやく1988年、コッポラが合意して製作が本決まりになった。
ただしコッポラはPARTUの時と違い、全ての全権を握る支配者のようにこのPARTVを製作することは出来なかった。 製作期間など、頭を痛めるパラマウントの無茶な要求を何とか飲みつつも自身を貫き通したのが音楽だった。 だがどうせマンキューゾ率いる当時のパラマウントの事、音楽にも腰砕けの提案をしたに違いない。 しかし前2作で音楽を担当したニーノ・ロータは1979年に亡くなっている。 おそらくこの時点でこれまでパラマウントで上質な仕事を残したエンニオ・モリコーネ(『アンタッチャブル』)、モーリス・ジャール(『危険な情事』)、アラン・シルヴェストリ(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)、ハンス・ジマー(『ブラック・レイン』)らといった面々を推されたのではないか? だが、彼が迷う事無くスコアを依頼したのは父カーマイン・コッポラだった。
勿論、彼しかふさわしい人間がいないのは当然だ。 PARTT、PARTUに関わっているカーマインなのだ。 このコッポラ親子はPARTUの後、『地獄の黙示録』('79)、『アウトサイダー』('83)、『友よ、風に抱かれて』('87)でも組み、フランシスが製作の『少年の黒い馬』('79)、『ナポレオン』('82)でも最高のコンビで魅了した。
PARTVではニーノ・ロータの曲を生かしてカーマインのオリジナル曲を挟んで最終コーダを聴かせた。 確かにニーノ・ロータが生きていれば…とも思うが、それでもカーマインは自身の才能をこのPARTVに賭けた。 パラマウントの無茶な「主題歌を入れろ!」との要求も泣く泣く飲みつつ(歌:ハリー・コニックJr.)、カーマインはコルレオーネ・ファミリーの有終の美を飾ったのだ。 そしてヴィトー、マイケル同様にPARTVの完成後、カーマイ ンは静かに息を引き取ったのだった。
PARTTのサウンドトラック・アルバムは、売れに売れて映画音楽のエピックとなった。 PARTUもその質の高さにおいて前作を作品同様上回り、正にマエストロ・アルバムとなった。 そしてこのPARTV。 前2作をリリースしたパラマウントおよびABCレーベルは既にこの時存在していない。 「一体、どこのレーベルがリリースするんだ?」という推測がマニアックなファンの間で囁き始められた。 皆一様にに「絶対、VARESEだ!」「メジャー作品を連続して出しているVIRGINだ!」「いや、MCAだろうな!」と興奮気味だった。
確かに当時、パラマウント作品のモーリス・ジャールの『刑事ジョン・ブック 目撃者』('85)をリリースしてからのVARESE SARABANDEの勢いは凄まじく、メジャー会社のスコアを連続してリリースしては成功を収めていた。 ちょうどこの時期、ジェリー・ゴールドスミスの『グレムリン2』『トータル・リコール』や、レナード・ローゼンマンの『ロボコップ2』などの1990年のクリスマス・シーズンのスコアを独占してリリースしていたし、VIRGINも同様に連続してサウンドトラック・アルバムをリリースしていた。 しかしこの時、前2作の権利を獲得していたMCAからPARTVをリリースするのがもっとも自然だと思われていた。 ところが結局、誰も予期していなかったCBSコロムビアからリリースする事になる。 何故ならば主題歌を歌うハリー・コニックJr.が契約していたレーベルだったからだ。
フランシス・コッポラ自らアルバム・プロデュースに加わり、全17曲を収録したアルバムは完全デジタル・レコーディングで製作された。 御馴染みのニーノ・ロータのメイン・タイトルで幕を開け、例のワルツ等、ロータのメロディがゴッドファーザーの世界へと引き込む。 カーマインの作曲したオリジナルのヴィンセントのテーマ、PARTVのラブ・テーマ等は、前2作には無い甘いメロディ。 このどこかセンチメンタルなテイストが、どこかドライな印象の前2作とは異なる雰囲気をもたらしている。 そしてオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の曲は、コッポラの息子アントンの指揮で聴かせる!と結局はコッポラ・ファミリーでこのPARTVの最終コーダを聴かせたのだ。 ただしアルバム・未収録の曲もいくつかあり、その中でもロータの名曲・愛のテーマのヴォーカル・ヴァージョンとラストの階段の神の審判の場面に流れる『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲が未収録なのが惜しまれる。
PARTTの時、それはカヴァー・ヴァージョンのリリースの嵐が吹き荒れた。 PARTUの時も数は減ったがそれでも多くのカヴァー・ヴァージョンがリリースされた。 それがPARTVでは一枚もない! もうこの時、映画音楽自体の位置づけが1970年代の時のような大衆的な存在とは大きく異なっていたのだ。 ただCD・LPなどのメディアで本物のサウンドトラックを聴けばそれでいい。 ラジオ等で映画音楽のテーマを聴く者ももう居ない…と何とも淋しい時代となっていた。
そんな砂漠で見つけたオアシスのようなカヴァーといえば、ドイツのEDELレーベルからリリースされたギャング映画集にカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲がPARTV使用曲として収録されたオムニバス盤だ。
そして時が流れた2001年にSILVAからリリースされたCD「THE GODFATHER TRILOGY I・II・III」にシリーズ3作品の主な曲がシティ・オブ・プラハ・オーケストラの演奏で収録された。
あの愛のテーマのヴォーカルが聴きたい… そんな時は迷わずイタリアの名女性歌手、オルネラ・ヴァノー二のカヴァーでその悲しみを癒すのである。
2007年の夏はとても暑い夏だった。 そんな時、新垣結衣主演のTVドラマ『パパとムスメの7日間』を観ていたら、主役の女子高生役の新垣結衣が、劇中担任教師のことを「アル・パチ!アル・パチ!」と呼ぶではないか。 何でもその担任、『ゴッドファーザー』のマイケル、即ちアル・パチーノに酷似しているからだという。
その担任、そんなにパチーノに似ているのか!と思って観ていると、演じているのは…田口浩正!! おい!どこがマイケルのパチーノやねん! 確かに田口浩正は味のあるいい役者だが、パチーノとは似ても似つかない。 それにそんなセリフを言わされている新垣結衣は恐らく『ゴッドファーザー』は知らないであろうし、ましてやこのドラマを観ている中高生達も何のことやらさっぱりだと思う。 こんな脚本を書いたライターって恐らくギャグのつもりだとは思うが、もう『ゴッドファーザー』って遠い過去なのかも知れない…と、この時、夏の終わりに感じたもの…
しかしそんな時は決まって、改めて全3作品を観たくなる。 そして観終わると結局、このサーガはマイケル・コルレオーネの半生の壮大なドラマだったと痛感する。 親に反発して親のようにはならぬと決めた男が、皮肉にも家業を継ぎ、一番長生きしてしまう。 山の頂上に登り、気がつけば周りには誰も居なかったと痛感する男の物語。
PARTVでこれまでの自分を振り返り、己の恐ろしさに自らが震え上がるマイケル。 コッポラ自身も『地獄の黙示録』でマイケルのような恐ろしい男となったが、その後の失敗と息子を事故で無くしてからは、自分を取り戻し家族の大切さを痛感してPARTVのマイケルを通じて自分の姿を投影させた。