ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...
1970年、カンボジア。 クーデターが勃発後、ロン・ノル政権がクメール共和国を樹立。 だが国は大混乱の極み、まさにカオスだった。 なぜならポル・ポト率いる共産主義勢力のクメール・ルージュがゲリラ攻撃を行っていたからだ。 内戦は泥沼化し、クメール・ルージュは各地で反革命分子の大量虐殺を行い、その地はキリング・フィールド(殺戮の地)と呼ばれていた―
ニューヨーク・タイムズの記者、シドニー・シャンバーグはこの内戦を取材していた。 彼は内戦の混乱からやっとのことで脱出し、アメリカに戻る。
帰国後体験記を出版、ピューリツァー賞を受賞するも彼の心は晴れない。 それは現地の通訳兼ガイドをしてくれたカンボジア人のディス・プランを残してきてしまったからだ。 その時はシャンバーグは自分自身の身の安全ばかりを考えていたことが心残りとなり、やるせない日々を過ごしていた。 帰国寸前、カンボジア人だからという理由だけで残されてしまったプラン。 彼のおかげで危険な場所での取材を行えたし、命も助けてもらった事もあったのに。 帰国して早数年、八方手をつくしてプランの所在を探し出そうとするシャンバーグだったが、すでにプランの生死そのものも分からないでいた。
それからしばらくしてニューヨークのシャンバーグのもとに、数年越しの信じられない報せが届いた。 ―プランがタイの難民キャンプで生存が確認された―
難民キャンプの診療所で診察の手伝いをしているプランに、面会人が来たと知らせが入る。 外に出てみると、そこにはシャンバーグの懐かしい顔が待っていた。 ようやく、ようやく再会した二人。 国境を越えた熱い友情に二人の男の顔には、ただ温かい涙が流れていた。
彼は自分自身の製作した作品の監督は好んで新人を起用し、スコアは出来るだけ映画界以外のミュージシャンを起用しては成功を収めて来た。 『ダウン・タウン物語』('76)のポール・ウィリアムス、『ミッドナイト・エクスプレス』('78)、『フォクシー・レディ』('80)のジョルジオ・モロダー、『炎のランナー』('81)のヴァンゲリス、そして『ローカル・ヒーロー 夢に生きた男』('83)、『キャル』('84)ではダイアー・ストレイツのギタリスト、マーク・ノップラーを起用したように。 だが『キリング・フィールド』は喜多朗にオファーするもスケジュールが合わずに断念。 そこで選ばれたのがマイク・オールドフィールドだ。
当時、オールドフィールドはイギリスだけではなく、世界的なミュージシャンになっていた。 もうプログレッシヴ・ロックだのロックだのといった限定されたジャンルでは語れない程のスケールのミュージシャンでもあったオールドフィールドは、1973年の『エクソシスト』の苦い想い出からか、この時点でサウンドトラックの仕事は一切受けていなかった。 そしてこの『キリング・フィールド』で初めてのサウンドトラックの仕事を引き受ける。 「この映画はとても感動的だ。 こんな素晴らしい映画に僕が音楽をつけられるなんて考えられないくらいに幸せだ!」 とオールドフィールドは引き受けた理由を語る。
そして彼は自宅のスタジオにこもり、フェアライトCMIシンセサイザーで作曲。 ギターおよびシンセサイザーを自ら演奏し、友人のデヴィッド・べドフォードがコーラスとオーケストラのアレンジを担当。 100人以上のコーラスとオーケストラ曲をも操り、内容的に哀しい曲を要求されがちな作品だが、そんな安っぽい感傷的なメロディ一切無しのドライでヒューマンなスコアは、もはや神の位置から観た当時のカンボジアの音といってもいいだろう。 並の映画音楽家ではこんなにも肌で感じる音楽は出来なかっただろう。
後年、オールドフィールドは 「あまりにも悲劇的で感動的な映画の為、作曲は困難を極めた。」 と語り、そしてこれ以上の映画音楽は作れないと感じた為か、その後もサウンドトラックの依頼は蹴っている。 デヴィッド・パットナムはスコアを聴いて感動し 「いまになってみれば、彼以上にやれる人はいなかった!」 とまで言わしめたのだ。
意外にも短い曲で構成された全17曲入りのアルバム。 オールドフィールドならではの組曲ではなく、短い曲の切り張りと言ったらそれまでだが、だがどうして1曲ごとに異なったサウンドで構成されている。 ただしそこには甘さのかけらもなくてひたすらビターなサウンドだけである。 エキゾチックな民族楽器もふんだんに奏でられているが、全くインプロヴィゼーション的な方向には決していかない、あくまで映画の背景音楽として律儀にもそこは短く奏でられている。
ミュージシャンによっては、アドリブがいきすぎてサウンドトラック・アルバムをリリースしても全く映画本体とは異なる世界を創りがちだが(誰とは言わない)、オールドフィールドのこのサウンドトラックは、あくまで背景音楽なのだ。 だからといってダレることはなく、どの曲も研ぎ済ませられている。 また、エンド・タイトルで鳴り響くのはフランシスコ・タレガの古い曲、「ETUDE」(アルハンブラ宮殿の想い出)のアレンジ・ヴァージョン。 この曲でようやく魂の安らぎが得られる感動的な曲。
全ての曲のレコーディングは、イギリス・ドイツ・スイスで行われ、完成したアルバムは1984年12月にイギリスのVIRGINより世界初リリース。 その後、映画公開に合わせて各国でもリリースされ、イギリス・日本では「ETUDE」と「EVACUATION」のシングル・ヴァージョンとしてシングル・カット、さらにイギリスではフルレングス・ヴァージョンの12インチ・シングルもリリース。 特にフランスでは初回プレスのみ異なるジャケットにてリリースされており貴重だ(その後、元のジャケットにて再リリース)。
イギリス本国では他のオールドフィールドのアルバムと比較してセールス的には振るわなかったが、それでもロング・セラーを続けており、CDにバトン・タッチされている。 そして2000年には新たなデジタル・リマスタリング盤のCDがリリースされた。 今でもこの魂の音楽は消え去っていない。 シャンバーグとプランの友情の炎が消えないように。
「あー、ワシ、CIAで仕事してましてん。 ブルース・リーと友達でしてん。 役者業の合間にシェリフもしてまんねん。 悪党どもをコテンパンにしてますねん!」
と豪語するスティーヴン・セガールのような八百長力士とは違う、本当に生きるか死ぬか!を実体験した男が、ディス・プランを演じたカンボジア人のドクター・ハイン・S・ニョールである。
彼自身もカンボジアでクメール・ルージュの元で何度も拷問や死の危険を潜り抜けたプラン同様の人間。 当時、フィアンセをはじめ、親兄弟・親戚の全てをカンボジアで失い、彼自身もプラン同様タイに脱出、そして難民キャンプで医師として働いた後、アメリカに渡る。 ちょうどプラン役の俳優が見つからないことからカリフォルニアに亡命している数万人の中から当時、32歳のニョールが選ばれた。 演技経験の全くない素人のニョールは、見事1985年度のアカデミー、ゴールデン・グローブの助演男優賞を獲得。 その時の壇上のスピーチで堂々と当時のカンボジアを語るときの鋭い視線は、本物の修羅場を戦い、生き抜いた人間だけが持つ、鷹のような眼だった。
ニョールはその後もなにかとベトナム戦争がらみの映画に登場、サモ・ハン・キンポー監督・主演『イースタン・コンドル』('87)、『MIA 戦闘後行方不明』('87)、『アイアン・トライアングル』('88)、ロバート・ギンティと共演の『ベトナムUSA』('89)、『キリング・ヒート』('93)、オリヴァー・ストーンの『天と地』('93・音楽は喜多朗)などなど。
作品を選んでいるのかそうでないのかは本人に聞きたいところだが、1996年、ニョールはLAの自宅近くで強盗に射殺されてしまう。 あれだけカンボジアで泥水を飲み、クメール・ルージュの極左教育に屈せず、殺戮の大地を裸足で駆け抜けた男の最期は、実にあっけないものだった。 合掌。