ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...
ゴブリン
ワタシ、むかーしむかし、それはそれは大富豪の一人娘の超お嬢様にしてスーパー・アイドル級のカワイサに加えて、世界を羽ばたくバレリーナだったのよ! そう…スージー・バニヨンのあの忌まわしくて恐ろしいドイツのバレエ寄宿学校(女だけ)のお話を聞いて下さる?
あれはワタシが20代後半、いーえ絶対に19歳の時のこと。 そのころワタシは大きな瞳に愛らしいカールした髪でさ、モデル級のしなやかな肢体でさ、でもバストは目玉焼きで声がブルース・シンガーみたいなハスキー・ヴォイスがかよわい乙女の悩みでさぁ! …って真夜中の友達の長電話はこの辺にして… 1977年、あの時ワタシは「世界に舞うアイドル・バレリーナになっちゃる!」と決心して単身、ニューヨークからドイツにある名門のバレエ学校に入学する為にドイツの空港に舞い降りたの。 その時、もう夜の10時でさぁ、凄い土砂降りの雨だったの。 とにかくタクシーに乗り込み学校に着くと門から「秘密のドアが!アイリスが三つ!青いのを回すのよ!」と女の子が叫びながら飛び出してきたの。 「あー、こんな雨ん中ビニール傘なしで飛び出したらダメよ。ドイツにもバカ娘は居るのね。ったく!」 とワタシは余裕ぶっこいてんだけとこれが恐怖の始まりだったの…
雨ん中、飛び出したコとその友達はその夜の内に誰かにぶっ殺されていたのをワタシは知らなかったの。 学校は副理事長のマダム・ブランク、厳格な教師のターナー・オバハン、ピアニストのダニエル以下、下男と下女等、なーんかイヤな感じの人々に加えて、この学校の理事長は海外に旅行中だというの。 何か変ね!とアイドル頭脳全開のワタシだったけど、ルームメイトのサラと友達になったの。
広い額、何日もシャンプーしていないようなのっぺりとした薄い髪、寝不足のような暗く沈んだ眼、いかにも運動神経が切れているようなひ弱な体。 絶対に女子からは「絶対につきあうのイヤ!」と捨てゼリフを浴びせられる確率200%のイタリア男、ダリオ・アルジェント。 当時で言うなら健康で爽やかなジュリアーノ・ジェンマのようなイタリア男も居るのにアルジェントときたら… でもそんなアルジェントの屈折した暗い情念は、恐怖映画の監督としての才能を開花させ、自作のサウンドトラックにも非凡な才能を発揮させていたのであります。
当時、巨匠になりつつあるエンニオ・モリコーネと『歓びの毒牙』('69)、『わたしは目撃者』('70)、『4匹の蝿』('71)で組んで時にはモリコーネを激怒もさせたアルジェント。 とにかく自作の音楽にはうるさく、その要求はもはやスタンリー・キューブリックのよう。 本気でピンク・フロイド、ディープ・パープルにも依頼しようとしていたアルジェントは、やはりロック・ジェネレーション。 そんなアルジェントの運命的なサウンドトラックは、1975年の「PROFOND ROSSO」即ち『サスペリアPART2』。 先に決まっていたジョルジョ・ガスリー二のスコアを大幅にカットし、追加スコアに加えて演奏しなおしたのは、当時スタジオ・ミュージシャンで固められたバンド、チェリー・ファイヴ。 彼らはゴブリンと改名して担当した『サスペリア PART 2』の大成功でアルジェントの信頼を得たゴブリンが、続く『サスペリア』のサウンドトラックを担当するのは当然のことであります。
アルジェントの緻密な音楽設計と構成に応えるべくゴブリンのメンバー、クラウディオ・シモネッティ、マッシモ・モランテ、ファビオ・ピニャテリ、アゴスティーノ・マランゴロはスタジオに籠もってアルジェントを感激させる最高のサウンドトラックを完成させるのでした。 わらべ歌のような愛らしいメロディーのテーマから一転しておどろおどろしい唸り声、暗黒の叫び声と断末魔の悲鳴をも思わせる暗黒の響き、そしてパラノイアなロックの洪水で全編をバケツの水をひっくり返したのような音楽の洪水で演出していたのでした。 ブズーキ、タブラのようなエキゾチックな楽器も効果を上げていたのはアルジェントのアイデアでもあり、この『サスペリア』ではゴブリンとアルジェントの最高のコラヴォレーションの結晶でもあります。
まるで冒頭のドイツの空港の豪雨のように全編降り注ぐゴブリンのロック・ミュージック。 そう『サスペリア』は − ホラー・ロック・オペラ・ショーの饗宴なのです。
1977年、『サスペリア』のサウンドトラック・アルバムはリリースされました。 それはただの1枚のサウンドトラック・アルバムでは無く、革命的なアルバムだった!と言えるでしょう。 ゴブリンの音楽は今まで耳にした事のない、恐ろしくて官能的なロック・ミュージックであり、それは完成度の高いトータル・アルバムだった、と言えます。 映画のサウンドトラックの枠を遥かに飛び越え、当時マニアが増えてきていたヨーロッパのプログレシッヴ・ロック・ファンにも強烈にアピール。 ここにイタリアのENTER THE GOBLIN!となったのです。
↑イタリアオリジナル盤LP(表)
↑イタリアオリジナル盤LP内ジャケ(表)
↑日本盤LP
日本ではODEONレーベルから異なるジャケットでリリース。 プロモ盤ではイタリア・オリジナルの豪華スタイルを維持しておりましたが、さすがにコストの関係で一般リリースでは普通の形でありました(初回プレスのみ豪華盤だったの説もあり)。 フランスはBARCLAY、イギリスではEMIとそれぞれ異なるジャケットでリリースされ、本国イタリアでは大ヒットとなり、日本でも大いにセールスを記録しました。 シングル・カットもされてアルバム同様にベストセラーとなりました。
↑日本盤シングル
イタリアではあまりの売れ行きにCINEVOXも驚き、1980年には新ジャケットで再リリース。 CINEVOXのドル箱としてその威力を発揮したのでした。 この時、『サスペリア』をメインとしたダリオ・アルジェント集、ゴブリン集という様々なコンピレーション・アルバムもリリースされゴブリン・マニアを大いに喜ばせたものです。
↑イタリアDAGORED盤LP(2000年)
勿論、CD化も速く、しかも1990年代の後半には完全盤CDも登場、 2000年にはさらなるニュー・ジャケットでDAGOREDよりLPもリリースと「ゴブリンのサスペリア」の旅は永遠に続くのです。 ここ最近でも紙ジャケット、リニューアル盤、ピクチャー・ディスク・LPも登場とゴブリンのクラシックとして愛され続けております。
ロッキード事件、コーチャン、ピーナッツ、ヨッシャ・田中首相逮捕!の激動の1976年が終わり、1977年になるとキャンディーズの3人の太ももよりもピンク・レディーの張りのある太ももにヨダレを垂らしていた頃― ブライアン・デ・パルマの『キャリー』に始まり、『家』『オードリー・ローズ』そして『センチネル』と怒涛のごとくに恐怖映画の波に飲まれようとしていた矢先、6月10日「決してひとりではみないで下さい!」の『サスペリア』が公開されました。 既にこの時、普通の中学生は映画館の常連でもあり、小学生も友達同士で劇場に足を運ぶ時代でしたね。 そんな低年齢層の好奇心を刺激してかの大ヒット。 勿論、こわいもの好きの女子高校生、OLらも大挙して悲鳴をあげておりました。 そんな女子目当ての痴漢オジサンもスポーツ新聞片手に劇場の闇に進入しており、そこはパラダイスだった(by 痴漢オジサン)そうです(なんせ女子はキャー!キャー!と画面に釘付けでありましたから)。