ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...
デヴィッド・マンスフィールド
<1870年>
東部の名門ハーバード大学を希望に満ちて卒業したエイヴリル。 彼はその時、喜びと希望にあふれ、若きアメリカの国同様、自分の未来には全ての可能性が開かれていることを信じて疑わなかった―。
<1890年>
エイヴリルは連邦保安官としてワイオミングの地を踏んだ。 この時、アメリカは混乱の時代にさしかかっていた。 ワイオミングではヨーロッパからの移民たちが続々と押し寄せており、先住のアングロ・サクソンたちと激しく対立していたのだ。 アングロ・サクソンの家畜業者のリーダー・カントンは頻発する家畜泥棒の対策として、移民たちの居住地であるジョンソン郡スウィート・ウォーターの移民たちを皆殺しにすることを決めた。
エイヴリルはカントンらの計画を阻止すべく動き始める。 移民たちの集まる酒場の主人ブリッジスに協力を求め、想いを寄せる移民の娼婦エラを安全な地に逃がそうとするが、彼女はすげなく拒否する。 そんな彼女に想いを寄せているのはエイヴリルだけではなかった。 カントンに雇われている凄腕の殺し屋チャンピオンもその一人。 片やインテリのエリート保安官、片や無口でクールな殺し屋。 対照的な二人の男に愛されているエラの心は激しく揺れ動く。
激しい戦いの末、最後に残されたものは死体と瓦礫の山だった―。 絶望したエイヴリルは生き残ったエラと共に新天地へ旅立とうとするが、待ち伏せていたカントンと傭兵集団の残党が放った情無用の銃弾がエラの白いドレスを真っ赤に染め上げてしまう。 すぐさま反撃しカントンを葬ったエイヴリル。 しかしエラは既に息絶えていたのだった。 彼は絶叫し、天を呪った―。
<1903年>
東部の上流階級に戻ったエイヴリルにはかつての情熱は消え去っていた。 豪華なクルーザーに美しい妻が側に居ても、その表情は死んだように無表情だ。 時々、あの美しいエラの笑顔と彼女が死んだ時を回想するエイヴリル。 彼女が死んだ時、エイヴリルの心も死んでしまった。 かつての戻らないあの時を噛み締めて、残された者の空虚な夕陽を浴びるエイヴリルの姿が、大きな海に浮かび上がる。
前作『ディア・ハンター』('78)で世界を射止めたマイケル・チミノ。 監督デビュー作の『サンダーボルト』('74)の次に撮りたかった『天国の門』はチミノにとって夢の作品。 この作品が撮れるこの時、チミノは正に天国に昇る気分だっただろう。 しかも大成功の『ディア・ハンター』の次の作品とあって、チミノはキャスティングや製作の全てにおいて天界の絶対神のように振舞った。 この時、絶対君主の暴君 ―いや、神― に異を唱える者は誰も居なかった。
まずチミノが『天国の門』のスコアを任せる作曲家として選んだのはジョン・ウィリアムス。 『ディア・ハンター』のギタリストのウィリアムスではなく、当時『未知との遭遇』('77)、『フューリー』('78)等でハリウッドのキングとして名を馳せていたあのウィリアムスだ。 早々と配布されたプレス資料にも音楽はジョン・ウィリアムスとクレジットされていたにもかかわらず、当のウィリアムスはこの魅力的な、チミノからの天国の切符を破り捨てた。 この事件の表向きの理由は、スケジュールの関係と伝えられているが、女性プロデューサーのジョアン・カレリの言葉では実際は「ギャラが高すぎたのが原因」という。
そこでチミノは『ディア・ハンター』がオスカーを制覇した時、同じくオスカー作曲賞にノミネートされていたエンニオ・モリコーネ(『天国の日々』)に依頼しようと考えた。 テレンス・マリックの『天国の日々』は今回のチミノ作品同様に映像等、共通する部分も多く、とにかくモリコーネのスコアは美しくて感動的だった。 チミノはモリコーネが相応しいと確信してロンドンでモリコーネとミーティングを行う。 しかしイタリアの巨匠は、チミノとカレリとミーティング中になんと居眠りをしてしまう。 激怒したチミノは自ら天国への切符を燃やしてしまった。
女性プロデューサーのジョアン・カレリは劇中でエラの身の回りの世話をしてローラースケート場のバンドでフィドルを演奏する、ボブ・ディランのバック・バンドのメンバーをキャスティングしていた。 その中にいた、若干23歳のまだ子供のような青年は、実は10代の頃からあらゆる楽器に精通し演奏をこなしており、劇中のバンド・メンバーにも演奏を教えて、しかも劇中のローラースケート・ダンスのBGMもアレンジをしていた。 彼はそれまでに数多くのレコーディングも経験しており、若いが素晴らしいミュージシャンだった。 この青年に何か感じたカレリは、劇中で歌われる東欧の民族音楽のアレンジ曲を特別にロケ地のスタジオでレコーディングをさせた。 青年にとっては半年にも及ぶ撮影期間の暇つぶしのような感覚で数々の曲を一人でレコーディングしていた。 そしてそのテープをカレリはチミノに聴かせる。 そのテープを聴いたチミノは叫んだ。 「これだ!探していた曲はこれだ!」 ただの暇つぶしのレコーディングをしていた青年の名前は、デヴィッド・マンスフィールド。 当時23歳の青年が、生まれて初めて映画音楽を任されることとなった。 しかも超大作だ。 こうしてマンスフィールドに天国の切符が渡されたのだった。
1979年4月9日。 マイケル・チミノ作品『ディア・ハンター』は、5つのオスカーを獲得。 天国の階段を昇り始めたチミノを祝福するかのように、翌月の5月(日本は6月5日)に『ディア・ハンター』のサウンドトラック・アルバムが奇跡のリリース。 当初、リリース予定の全く無かったたアルバムは瞬く間にベストセラーとなった。
『天国の門』は最初からサウンドトラック・アルバムのリリースは確定していた。 音楽も売って興業を盛り上げようというわけだ。 1980年11月の公開に合わせてアルバムはマーケットに放たれた。 製作のユナイトは元々レコード部門のUAレーベルを所有していたが、不採算部門のこのレーベルを閉じた為、販売元のLIBERTYよりリリースされた。
ジャケットはほとんどホワイトで占められており、全体の30パーセントの部分にタイトルがデザインされている、大胆かつシンプルなデザイン。 これはビートルズの『ホワイト・アルバム』のデザイン? いや、あるいはブラックで占められた『ゴッドファーザー』のサウンドトラック・アルバムのデザインに触発されてもいるようで、とにかく「大作のアルバム感」があるデザインだった。 アルバム・プロデューサーは、ジョアン・カレリ。 彼女はもうこの時から愛するマンスフィールドの為に全霊をこのアルバムに込めた!と言っても過言ではないだろう。 彼女はマンスフィールドがレコーディングした約30数曲の中から厳選した、13曲をアルバムに収めた。 どの曲も美しく、もの悲しく、そしてどこか懐かしい。 特にエンド・クレジットの『Ella's Waltz』の美しさは永遠に耳に残る。 映画自体は酷評されても、この音楽を収めたアルバムが高く評価されたのは、当然のこと。 誰か他の作曲家でシンフォニックなオーケストラのスコアでは、やはりこの作品にはミス・マッチだったであろう。
だが映画自体が不当な扱いを受けたお陰でこのサウンドトラック・アルバムは、段々と人々の記憶から消えていくこととなる。 翌1981年の短縮版の再公開時には勿論、再プレスされることも無かったが、フランスで公開の際には素晴らしいジャケットでリリースされており、フランス人のアート感覚を刺激した。 このフランスでは結構、売れた為か異例に再プレスもされ、オリジナルのホワイト・ジャケットでも再リリースされた。 他のヨーロッパ圏でもリリースされたが売れ行きは芳しくなかったようだ。 日本でも1981年9月の公開に合わせてリリースされたが、映画と共に死滅した(不思議なことに世界中で唯一日本だけUAレーベルでリリースされた)。
CDの時代に入ってもリリースはされない、むしろされるはずが無い!と思われていたが、1999年にRYKOレーベルから、LPより12曲も増えてのCDリリース。 この時期、作品自体がカルト・ムービー化していたこともあってか、ようやくサウンドトラックの評価も高まるか!と思われたかCDの売れ行きも振るわず市場から姿を消して行ってしまう。 振り返ればこんな経緯もこの作品らしくていいかもしれない。 好きな者は永遠に忘れないし、知らない者は永遠に知らない。 もう今後、再リリースされることは永遠にないだろうか? でもあの美しい絵画のような大地で聴いたあのワルツは、死ぬまで忘れることはないだろう。
今現在、マイケル・チミノの『天国の門』の事を口にする者は全くと言っていいほど誰も居ない。 いや、「そんな映画は知らぬ、観たこともない!」と言われても不思議でもない。 観てなくても「ああ、あの映画会社をぶっ潰した駄作・超大作のことでしょ?」とサラリと言う者も最近では、珍しいかもしれない。
『天国の門』が駄作か傑作かは観た者の判断に委ねるとしても、チミノの『天国の門』は忘れられない、いや忘れたくはない作品だ。 動く油絵のような美しい画面。 どのフレームも額縁に飾って永遠に眺めていたい場面の数々。 それにチミノらしいヴァイオレンス描写と男気のあるキャラクターたち。 主役のクリス・クリストファーソンのクラシックな男くささは、ゲーリー・クーパー、バート・ランカスターやスティーヴ・マックイーンのような味わいだ。 さすがはサム・ペキンパー組だけのことはある。
だがクリストファーソン以上に男気を見せたのは、孤高の殺し屋・チャンピオンを演じたクリストファー・ウォーケンだ。 金の為に移民を殺し歩く、無口で不気味な殺し屋。 しかし愛する女の前では、本心も言えずにただ黙りこくる少年のような男。 恋のライバルでもある、クリストファーソン演じるエイヴリルには、男としての敬意と尊敬を払い、敵でもあるのに友情心も見せる古いタイプの男。 愛する女がインテリのエイヴリルと結婚した方が幸せになると心のどこかで感じつつ、自分なりの誠実さで求婚するチャンピオンが泣かせる。 そんなチャンピオンの静かで燃える情熱に涙する女、エラ。 けれど二人は、永遠に結ばれない。
雇い主に反旗をひるがえしたチャンピオンを大勢の刺客が襲う。 家を焼かれ、自分の末路を知ったチャンピオンは、「エラを頼む」とメモを書いて胸に忍ばせると、両手に拳銃を手に刺客たちの前に飛び出す! そして全身に銃弾を浴びて遂に倒れるチャンピオン。 惨めな命乞いなどせずに、自分らしく死に場所を選んだチャンピオンこそがチミノ流の美学。 『ディア・ハンター』で自らの戦争体験に決着をつけたニック、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」のライバルの前で自決したジョーイ同様に、このチャンピオンもまるで武士の切腹のように散っていく。 彼には未練も後悔もなかったはずだ。
『天国の門』が傑作か失敗作か、なんてことはもうどうでもいい。 『天国の門』もチミノが好んで描く、男の最高の散り様を様式美のように描く作品だった!と再認識するだけでお釣りが来るというもの。 そして生き残った者の空しさが、こんなにも痛く心に突き刺さるのもチミノ作品ならでは。 『サンダーボルト』('74)から脈々と受け継がれる、時代に取り残された男たちの生と死を描くマイケル・チミノの魂は、『天国の門』でも鮮やかに描かれている。 作品自体がワイオミングの砂塵の彼方に消え去った今日も、チミノが描く男たちの魂は生き続けている。