|
|
|
ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです... |
|
|
|
主演 |
|
デヴィッド・ボウイ
トム・コンティ |
|
監督 |
|
大島渚 |
|
音楽 |
|
坂本龍一 |
|
|
|
|
My love wears forbidden colours,
My life belives in your once again.
(私の愛は禁断の色彩を帯びる。
私の生はもう一度、あなたを信じる。)
|
|
|
|
1942年、バタビヤ(現ジャカルタ)の帝国陸軍の法廷にヨノイ大尉が現れた。彼は二・二六事件の決起に参加出来ずに死に遅れたエリート軍人である。法廷で裁判にかけられるのは、英国陸軍少佐のジャック・セリアズ。法廷に立つセリアズを、まるで魔物に取り付かれたように異様な眼差しで凝視するヨノイ。
ヨノイはセリアズの眩しい金髪、優雅な物腰、そして軍人らしい誇りに魅せられた(…惚れちゃった…ヨノイの心が発芽する)。判決は死刑だったが、ヨノイの計らいでセリアズはヨノイが所長を務めるジャワ(現インドネシア)の俘虜収容所に護送された。収容所には、残忍なハラ軍曹(くまうっちゃり酒造。じょーだんじゃないよ!)が、英国・オランダ軍の俘虜達を虐待していた。 |
|
|
|
|
セリアズは収容所で上官のロレンスに再会する。ロレンスは日本語を話し、俘虜達と日本軍の間に入って所内のまとめ役を果たしていた。そんなロレンスをハラ軍曹(足立区バンド。♪ひっぱれ〜みんなで×××をひっぱれ〜♪)は、「ろーれんす!」と蛮声で怒鳴り、利用し、ムダ話をして、時には殴りつけていた。
セリアズが収容されてから、少しずつ所内が変化していく。なにかとセリアズを意識し(す、好っきやねん…)、彼を俘虜長にしたい(…えこひいき…)とロレンスを驚かせるヨノイ大尉。セリアズは、まるで禍いの神のように食料を勝手に持ち出したりしてヨノイ(…セッちゃんたら、何もわかってないんだから…)とハラを刺激する。ロレンスはヨノイ大尉に「彼はただの人間だ。迷信を捨てろ!」と叫ぶが、ヨノイの怒りを買い、セリアズ共々、独房に収容されてしまう(ごめんねセッちゃん…)。 |
|
|
|
処刑を覚悟した二人は過去について話しあう。セリアズには年の離れた弟がいた。少年時代、弟を裏切り、さらし者にして、傷つけ、消え去った弟の事が彼の心の傷となっていた。ロレンスには別れたままになっている女性がいた。 |
|
|
|
|
|
|
いよいよ処刑される時が来た。連行された二人の前にはなんと酒に酔ったハラ軍曹(くまうっちゃり酒造の名品、栄養ドリンク「朝まで」と「反りっぱなし」)がいた。
そして彼は
「ろーれんすさん!今日はくりすますなんだ。ふぁーぜる・くりすます!今夜、私、ふぁーぜる・くりすます!」
と叫び、二人をプレゼント代わりに釈放したのだった。
ヨノイはセリアズのせいで俘虜達が命令に従わないのに激怒し、その一人を斬ろうとした。しかしセリアズのある行為によって、全存在と誇りがまるで砂のように崩れ去るヨノイ大尉。そこには誇り高い軍人の姿はなかった。
ヨノイは更迭され、セリアズは新任の所長に処刑された。生き埋めにされて死の時を待つセリアズのもうろうとした意識の中にヨノイ大尉が現れ、別れの敬礼をした(…ばいばい…セッちゃん)。そして亡き弟が現れ、彼と共に故郷の丘へと旅立つセリアズ。 |
|
|
|
|
時は流れ1946年。戦犯として処刑を待つハラ軍曹の独房にロレンスが現れた。今は友人のように昔話をする二人。「さよなら、ハラさん。」(…忘れません…くまうっちゃり酒造の栄養ドリンク「はなぢ」と「仁王立ち」…)と頭を下げて出口に向かうロレンスの背中越しにあの収容所で何度も聞かされたあの「ろーれんす!」と蛮声で怒鳴る声が響いた。
歴史に飲み込まれた4人のドラマは終戦とともに終わりを告げた。
ハラの顔は、笑顔で収容所では見せた事のない、美しい表情だった… |
|
|
|
1980年の暮れ、デヴィッド・ボウイはブロードウェイで『エレファント・マン』の舞台に出演中、大島渚から出演依頼を受けた。その前年にボウイは日本のCMに出演しており、それを観た大島渚が「セリアズに相応しい。」と直感したという。サー・ローレンス・ヴァン・デル・ポストの原作を映画した本作だが、原作に書かれているセリアズは、「金髪で美しい男」として書かれていたので、ボウイには適役となった。
ボウイは本業のロック・ミュージシャンの顔と俳優の顔を持っていた。70年代の奇抜なグラム・ロック・スター、『ジギ−・スターダスト』をステージで演じ、そしてニコラス・ローグの『地球に落ちて来た男』('76)、デヴィッド・へミングスの『ジャスト・ア・ジゴロ』('78)では役者として主演していた。
70年代ロック界のスーパースターであるボウイは、その活躍の場を演技界へとシフトを転じたが、そのきっかけがこの大島渚作品である。後にボウイは「とにかく、大島渚と仕事がしたかった。脚本なんてどうでもよかった。」と語っていた。そんなボウイに対して大島渚は、「舞台の演技を観てとにかくその巧さに驚いてね。楽屋に行くと彼は、グラスで水を飲んでるんだ。飾らない人柄も良かった。」と絶賛していた。 |
|
|
|
製作資金の問題でなかなか製作に入れなかったが、「スケジュールは調整する。」とのボウイの言葉に大島渚も感動したという(最終的に撮影迄は2年近く待つことになった)。この作品の前にボウイは、トニー・スコットの「ハンガー」に出演、そして1983年は、文字通りボウイの年となった。
レーベルを移籍してのニュー・アルバム『レッツ・ダンス』が年明けと共に大ヒットしたのをはじめ、『戦場のメリークリスマス』『ハンガー』、70年代のステージの記録映画『ジギ−・スターダスト』の公開、そして『シリアス・ムーンライト』と題されたワールド・ツアーを含め、スクリーンとステージ両方でファンを魅了した。
さらにこの年の秋には日本にも来日し各地でファンを熱狂させ、まさに1983年はボウイ自身の名曲のタイトル通りの『ゴールデン・イヤーズ』となったのだった。 |
|
|
|
|
|
大島渚はボウイに出演依頼をする時、礼儀として「音楽もやってくれないか?」と伝えた。するとボウイは、「私は俳優として参加するので音楽は領域外だ。」と伝えた。
むしろ音楽を希望したのは坂本龍一であり、彼は自分自身で大島渚に「音楽をやりたい。」とアプローチした。そこで大島渚は「プロデューサーのジェレミー・ト−マスがOKならば。」という条件で同意し、坂本龍一がスコアを担当する事となった。 |
|
|
彼は何百時間とスタジオにこもり、その傑作サウンドトラックを完成させた。それはシンセサイザーをベースに、舞台のジャワに相応しいエスニックな楽器が何重にも重なり、聞く者の皮膚を刺激する素晴らしいスコアである。リリースされたサウンドトラック・アルバムは、映画の為のアルバムの枠を超越し、映画を離れても堪能出来る「エキゾチックなアンヴィエントアルバム」、もしくはヴァンゲリスの『野性』『チャイナ』のような「東洋的なプログレッシヴ・ロック」的なアルバムとしても鑑賞出来る。
当時、坂本龍一と親交のあったJAPANのヴォーカリスト、デヴィッド・シルヴィアンのヴォーカルをシングル・カット(ボーナス・トラックとしてアルバムのラストに収録されていた)。さらにアルバム収録の曲を坂本龍一自身がピアノのみで演奏しなおし、いくつか曲をプラスしたアルバム『CODA』もリリースされた。数年後、CDもリリースされベストセラーとなった。 |
|
|
|
|
|
|
このサウンドトラック・アルバムは、日本を始めヨーロッパ各国、そしてアメリカでもリリースされて評価を上げ、『世界の坂本』が誕生した。その後彼は1987年からベルナルド・ベルトルッチ、フォルカー・シュレンドルフ、ペドロ・アルモドバールの作品のスコアを担当。さらにオリヴァ−・ストーン製作作品、そしてブライアン・デ・パルマの作品までも手掛ける巨匠となっていった。
1983年に誕生したこのサウンドトラック・アルバムは、何十年経過しても色褪せる事は決してないだろう。
当時、デヴィッド・ボウイは、坂本龍一の音楽についてこう語っていた。
「とても素晴らしい。坂本龍一以上の音楽を書けた人は、決して存在しなかっただろう!」 |
|
|
|
|
|
『青春残酷物語』『太陽の墓場』('60)、『愛のコリーダ』('76)、『愛の亡霊』('78)等で世界的に評価の高かった大島渚は、1980年頃からテレビタレントと化していた。かつては『日本のヌーヴェル・ヴァーグの旗手』と表された監督もお茶の間・テレビの『すぐ切れるカン高い声のメガネおやじ』だった。 |
|
|
|
|
本作も1978年に企画がスタートしたが、資金を出す映画会社が無いせいかなかなか撮影に入ることができず、そのフラストレーションをテレビで「バカヤロー!」とシャウトしていた大島監督。
そんな監督とテレビで一緒にレギュラーとなったのが、キャスティングされたビートたけしやファッションショー(笑)で仕事をした坂本龍一だった。日本側もデヴィッド・ボウイもプロの俳優ではない。まして坂本龍一は演技経験ゼロ、全くのズブの素人。こんなキャストで映画を作る大島渚はこう語る。「ボクは、プロの役者は嫌いなんだな。プロってのは長年染み付いた垢があるんだよ。それより、下手でも一所懸命やってます!っていう素人の方がいいんだな。」
南半球のラロトンガ諸島で撮影された本作は、ビートたけしにとっては笑いのネタの宝庫だったようだ。彼は、いち早くロケ先から日本に帰国すると、テレビ・ラジオ等でロケ地でのエピソードについてしゃべくり倒していた!
「オイラ、始めに大島監督に言ったの。オイラはプロの役者じゃないんだからミスして怒鳴られたらすぐ帰る!って。そしたらさ、現場でNGを出すとさ、監督、スタッフに『バカヤロー!』って怒鳴ってさ。スタッフ、震えてやんの!」
「ある時なんてさ、オイラも坂本龍一もNGを連発してさ。休憩しようってなってさ、監督を見たらさ、トカゲに向かって『バカヤロー! テメエ、どこの事務所だ!』って怒ってやんの!」
とたけしの毒舌は日本中に響き渡った。
「坂本龍一なんて、メイクが歌舞伎だぜ!目ェ見たらまるでハマチだぜ!」
「大島監督、久々の映画だからさ、テンションが高いの。朝っぱらから『おはよう!タケちゃん!さかもっちゃん!』だぜ。もう帰りたくなったよ。」
「ボウイは特別扱いでさ。倒れるシーンなんてさ、地面の小石から掘り起こしてんの。ケガさせたらダメだってさ。そしたら大島さん、『オレが見本で倒れてみせる!』って自分で倒れてやんの!ありゃバカだぜ!」
日本に帰国した大島渚は、勿論たけしの言葉を全て否定したが、二人が映画の宣伝でテレビに出ると大島監督が
「フランスではタイトルが『FURYO』(俘虜)っていうんだ。凄いでしょ。」
すると横からたけしが
「フリオ・イグレシアスかと思った。」
「不良が何言うんだ!」
と監督マジ切れ!(血管、切れてまっせ。)
また、
「ボクはデヴィッド・ボウイは天使だと思うんだな。」
と大島監督が満面の笑顔で言うと、
「天使?思いませんよ!」
とたけし。
すかさず
「悪魔が何を言うんだ!」
と顔を真っ赤にして怒る大島監督。二人は見事なコンビネーションで笑いを掴んでいた。 |
|
|
|
1983年のカンヌ映画祭に出品されたが、評価の割にはグランプリには至らなかった。笑顔で記者会見に挑んだ大島監督は、「誰もデヴィッド・ボウイ相手に戦争をしようなんて思いませんよ。彼に逢いになら戦場に行きますよ!」とウィットともユーモアとも受け取れないコメントを出した。するとフランスの記者からは「ロック・ミュージシャンは神だから、これは東と西の神の対決だ。」とか「最後のハラは仏陀である。」といった批評が寄せられご満悦の大島監督。ヨーロッパでは評価が高いが、日本では否定派の批評もあった。
日本の俘虜収容所での異文化の対峙を描く傑作は、どうしてもデヴィッド・リーンの『戦場にかける橋』('57)を思い浮かべるが、本作はスケール感と一環したテーマに関しては程遠い。これは3部構成の長編の原作を脚色し演出した大島監督の限界かもしれない。収容所という限定された場所の舞台劇として鑑賞すれば、違った視点で楽しめるだろう。 |
|
|
本作は1983年の初夏に日本で公開され、不思議にも女子中高生の熱い支持を受けてヒットした。スクリーンに向かって「カワイイ!キョージュ、カワイイ!ボウイ、カワイイ!」…『カワイイ!の無差別爆撃』はこの時からはじまったのかもしれない。大島監督は「10代の女の子から手紙が沢山来るんだ!」とそれは嬉しそうに答えていたが、どうやら女の子たちの間では、単にイベントムービーのひとつだったかもしれない。
ただ一人、たけしだけがセルフパロディに徹し、自身の持ち番組『オレたちひょうきん族』で『戦場のメリーさんのひつじ』を披露。たけしが「めりーくりすます!あみだババア!」とシャウトすれば、明石家さんまが「みぃーたぁーなぁー。どーして分かったんだ!タケちゃんマン!」と返していた。本作は90年代初頭頃まで、クリスマス・シーズンになるとテレビ放映され、親しまれていた。
なお、1999年に久々の大島渚監督作品『御法度』でたけしが出演、坂本龍一が音楽を担当し、約16年ぶりに3人が再会したのであった。
今では大島監督の野坂昭如先生殴打事件や評論家の田山力哉氏に「お前なんか評論家じゃない!」と怒鳴りつけた武勇伝はレジェンドになってしまった(余談だが、将校役で出演の内田"しぇげなべいべー"裕也はD・ボウイ相手に「ろけんろー!」していた!)。
映画のメインタイトル、美しい朝日が射すジャングルにテーマ曲が鳴り響き、大島渚監督のルージュのクレジットが記されているのを観ると、もう一度、『バカヤロー!』のシャウトを聞いてみたい想いに駆られるのだ。 |
|
|
|