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Goodfellas House Choose One!

ちょっとしたサウンドトラックとその作品についてのコラムです...

Papillon (1974)
主演 スティーヴ・マックィーン
ダスティン・ホフマン
監督   フランクリン・J・シャフナー
音楽   ジェリー・ゴールドスミス
 

 1930年代のフランス。祖国から見放された重犯罪者達は、一斉に南米・フランス領のギアナの監獄へと送られた。その中に殺人の罪で終身刑となった男が居た。彼の名はアンリ・シャリエール。胸にある蝶の刺青からパピヨンと呼ばれる男。だが彼は無実を主張し「必ず脱獄して自由になる」と固く心に誓っていた。

 

 灼熱の海を渡る船内の囚人達は皆、小さな筒に紙幣を入れ自分の腸の中に隠し持っていた。脱走のための資金なのだ。そんな荒くれどもの中で、ルイ・ドガという優男だけはやけに有名だった。彼は国防債券偽造犯であり、大金を隠し持っていた為、囚人達は隙を見てドガの腹を引き裂いてその金を盗もうとしていた。パピヨンを脱獄の金を得る為にドガの生命を守る事をもちかける。そして二人の友情が始まった。

 
  ギアナの収容所は劣悪極まりなく、さらに脱走をしたものは2年もの独房送りに処せられた。脱走が2度目ならさらに5年の独房生活が待っている。そして3度目は―ギロチンの刑。ジャングルでの重労働の中、看守の暴行からドガを守ったパピヨンだが、スキを見て看守を倒し逃亡する。しかしあえなく捕まり、2年の独房生活を強いられる。
 
 

 孤独と闘う彼を支えたのは、自由への闘志とドガからの差し入れの友情だった。差し入れが所長にバレてもドガの名前を吐かないパピヨン。懲罰として天井にフタをされ光を失い、さらに食事を半分に減らされたが、彼は決して友を売ることはしなかった。飢えをしのぐ為、独房の中の床を這うゴキブリやムカデで食い繋ぐ日々―。ついには死んだ囚人仲間が涅槃から手を振る幻覚まで見たが、すんでのところで独房生活を耐え抜いたのだ。

 

 独房から開放されたパピヨンはドガの居る収容所に移送されて来た。そこで体力を戻したパピヨンは、2度目の脱獄を決行する。今回はパピヨンの窮地を救ったドガが成り行きで同行し、ようやくある島に辿り着くも、自由は長くは続かなかった。逃走を続けるパピヨンは、あるインディオの集落で束の間の平穏な時間を過ごすがまたしても捕らえられた。収容所へ連れ戻された彼を待っていたのは5年もの独房生活だった。

 

 
 5年の独房生活を終えたパピヨンの髪は真っ白になり廃人のようになっていた。そして悪魔島と呼ばれる小島に島流しとなる。ここに収容されると最後、一生出られない。なぜなら、島の周りを流れる強い潮流と無数の鮫のせいで泳いでの脱出は不可能だからだ。

 この島でパピヨンはドガと意外な再会を果たす。お互いに喜び合うが、リスクを避けてこの島でつつましく平和に生き長らえる事を望むドガと違い、パピヨンの頭には今も自由への渇望しかなかった。そしてパピヨンはヤシの実を詰めた袋を使って潮流に乗り、島から脱出する方法を考え出す。

 
 

 パピヨンはもちろん、親友ドガを再び脱走に誘った。はじめは調子を合わせていたドガだったが、いよいよとなってついに彼はパピヨンに切り出した。

 「君に言わなきゃいけない事がある」
 「ルイ、何も言わなくていいんだ」

 断崖から身を投げ出し、自由を得る為にまるで蝶のように舞うパピヨン。その姿をいつまでも見つめるドガ―。潮の流れに乗ったパピヨンは、海の波に身を任せて叫ぶのだった。

 「クソッタレ、俺はまだ生きてるぞ!」

 
 

 そしてパピヨンは遂に自由を得たのだ。
 彼を飽くなき自由への渇望に駆り立てた悪名高きギアナの監獄は、その後まもなくして閉鎖され、パピヨンほど生き長らえる事はなかった。

 「パピヨン」の製作者はフランスの大プロデューサー、ロベール・ドルフマンである。
 音楽について彼は恐らくこう考えたに違いない。

 「フランス人の話だからスコアを書くのはフランスの作曲者がいい」

 と。

 当時、1973年なら…ミッシェル・ルグラン?(イメージが違う)
 フランシス・レイ?(唄うスコアの作品ではない)
 ジョルジュ・ドルリュー?
(もっとダイナミックさが欲しい)
 では「レッド・サン」('72)でドルフマンと仕事をしたモーリス・ジャール?(なんとか出来たかも)

 …結局は監督の フランクリン・J・シャフナーの強い希望でジェリー・ゴールドスミスが音楽を担当した。

 シャフナーとゴールドスミスは既にこの時名コンビであり、シャフナーのデビュー作の「七月の女」('63)、「猿の惑星」('68)、「パットン大戦車軍団」('70)を担当していた。既に映画音楽の分野でベテランのゴールドスミスではあったが、「パピヨン」以前のスコアは明確なテーマ曲を書いたりはせず、ひたすら劇音楽にその力を注いでいた。勿論、ゴールドスミスには薄っぺらのドラマの依頼は来ず、ひたすらドライではあるが、スケールの大きいドラマを得意としていた。女性受けはまったくしないが、それでもこれぞ「男の職人」の仕事のようにスコアを書いていたゴールドスミス。

 

 そんな彼が「パピヨン」では珍しく甘くメロディアスなテーマを聞かせた。それは主人公パピヨンの「望郷」のテーマである、パリ・モンマルトルを思わせるロマンティックで甘いワルツ。哀しくも美しくもどこか懐かしいテーマ。全編、汚い男たちと灼熱のジャングルの劇中において、まるで「地獄に差し込む一条の希望の灯り」のようでもある。ゴールドスミスはこのテーマを劇中、ほんの少しずつ聞かせ、そして遂にラスト・シーンで湧き上がる希望の泉のように聞かせる。スリリングな逃亡シーンの迫力あるオーケストラ、インディオたちの美しい海のシーンの優しいストリングス。決して過剰に鳴りすぎず、ここぞと流れるスコアには、シャフナーの音演出も見事である。このゴールドスミスのスコアを聞くと誰も彼以上のスコアを書ける人は居ない!と実感するのである。

 
 この「パピヨン」でゴールドスミスの新たなる黄金期は始まり、その後もロマン・ポランスキー「チャイナタウン」('74)、リチャード・ドナー「オーメン」('76)、ジョルジュ・パン・コスマトス「カサンドラ・クロス」('76)、シャフナーの「ブラジルから来た少年」('78)、リドリー・スコット「エイリアン」('79)など1970年代は正に傑作揃いである。この時期から世界中のサウンドトラック・ファンの心を掴み、現在でも続く熱い人気は世界の映画音楽家の人気ランキングベスト5に入る事となった。未発表音源などリリースされ、ますます新作も期待と興奮が沸点に達していた2004年、惜しくもゴールドスミスは帰らぬ人となってしまった。

  彼のベスト・スコアは、人によっては意見が異なると思う。今日は「砲艦サンパブロ」('66)、明日は「ラスト・ラン」('71)しかり。しかし「パピヨン」がゴールドスミスのベスト・スコアの一本である事は間違いない。そう、希望が無くなり、明日が見えない時、暗闇の毎日の中、「パピヨン」を聞くとどんなに勇気が湧き、明日への光が見えて来たことか。これは只の過去の映画音楽ではない。もはや人生の友相棒と呼べるであろうか。そして天国のミスター・ゴールドスミスに「ありがとう。こんなに素晴らしい、偉大な音楽をプレゼントしてくれて!」とパピヨンのように叫ぶのだ!!

 ゴールドスミス自身がプロデュースした10曲入りのサウンドトラック・アルバムは、フランスを始めアメリカ、イギリス、イタリア、日本など世界各国でリリースされた。アルバムの売れ行きは意外と奮わず、どこも早々に廃盤となるが、全世界の中で日本だけは違った。日本盤の発売元、東芝EMIの元社員は言う。「とにかく凄い売れた。どんどんプレスしてもすぐに品切れを起こし、日本全国のレコード・ショップからアルバム、シングルのオーダーが途絶えることが無かった。東芝ではニーノ・ロータ「ロミオとジュリエット」が売れ行きの最高記録だったが、「パピヨン」が軽くそれを破った!」と言う。今では信じられないが、1974年のリリースから1988年まで堂々と現役だったのだ!

 
 
 1974年は多くの映画音楽のメガ・ヒットを生んだ年だ。ラロ・シフリン「燃えよドラゴン」やその他のブルース・リーもの、マーヴィン・ハムリッシュ「追憶」「スティング」、そして「エクソシスト」。その中でも「 パピヨン」は抜群のヒットを記録、ラジオでは毎日のように流れ、商店街から喫茶店までもが「パピヨン」を流していた。

 そしてイタリアで初のカヴァーがリリースされて以降、ポール・モーリアレーモン・ルフェーヴルカラベリときらめくストリングスなどのムード楽団から、アンディ・ウィリアムスエンゲルト・フンパーティングニコレッタ、その他無名の日本人などヴォーカルも多く、数え切れない位のカヴァー・レコーディングを生んだ。

 後にも先にもこんな大量のカヴァーを生んだゴールドスミス作品は無い!どの家庭にシングル盤くらいは所有し、小学生でもリコーダー笛でテーマを演奏していたのだ!

 

 

 1980年代、アナログ盤からCDに移行してもCD化はされていなかったが、1988年にイギリスのレーベル、SILVAよりLP再発と同時に初めてCDをリリース。しばらく現役であったがやがて廃盤となる。2000年代にはマニアの間では、ブートレッグのCDが出回っていたが、遂に2002年、フランスのUNIVERSALより全15曲、LPには未収録曲をプラスしてリリースされた。だが、不思議と日本盤がリリースされていない。

 

 
 アメリカでは当時ワールド・プレミアの際に、来場者にはプレス・キットと一緒にサウンドトラック・アルバムも手渡された。主演のスティーヴ・マックィーンもマスコミに「音楽が素晴らしい。」と語っていた。

 それにしても、こんなにも日本で愛されたサウンドトラックも珍しい。映画を鑑賞後、すぐに家で繰り返し聞きたくなるこの音楽。何度も何度も聞いても決して飽きる事はないなんて。現在ではこんな現象は皆無に等しい。だからこそこの「パピヨン」は偉大なるサウンドトラック・アルバムなのである。


 実際のパピヨンことアンリ・シャリエールはフランス人。当時、フランスの大物俳優でこの役が出来る者は居なかった。リノ・ヴァンチュラは違う。ジャン・ポール・ベルモンドでは軽すぎる。アラン・ドロンでは話にならない。当初、チャールズ・ブロンソンが予定されたが、結局は人気もスケールも演技力も格上のスティーヴ・マックィーンが演じたのだ。

 意外にもマックィーンは、アクターズ・スタジオでも演技を学んでいるので只のタフガイ・アクションスターでは無い。演技の出来るタフガイである。

 
 マックィーンは生後数ヶ月で実の父親が母親を虐待した上失踪した為、実の父を知らずに育つ。母は母でマックィーンを邪魔者のように扱い再婚した。10代のマックィーンは義理の父から毎日暴行を受け、遂にある日「こんど俺を殴ってみろ、次は殺してやる!」と叫んだ結果、立派な不良少年として少年院入り。しかしそこでも暴行を受けたりして何度も脱走を繰り返すワルとして生きるも、その後は生活のためには何でもやるようになり、海兵隊へ入隊。そこで銃の扱いや車などを覚えた。後に役者となり下積み期間を経て大スターとなる。
 
 

 マックィーンは言った。

 「さげすまれ、友人もいない男。しかしひとつの物事に情熱を傾ける男。
  俺はこんな男が好きでたまらない。」

 と。彼はこの言葉に相応しいキャラクターを演じ続けて男を磨き、「パピヨン」の役柄に充分な男になっていった。

 

 マックィーンは1980年に亡くなるまで孤独な男を演じたが、決して父親を演じなかった。僅かに日本以外は公開されていない「民衆の敵」('77)の家庭人を除いて。

 実生活でのマックィーンは2人の子供の父となった後、子供達をうんと甘やかして育てた(そのせいで彼らは現在も親の遺産で暮らしている)。自分が父の愛、家庭の愛に飢えていたせいなのか。しかしマックィーンはそれ以上に、家庭よりも仕事よりも、レースやバイクのスピードに我を忘れていた。何かから逃げるようにスピードに魅せられていた。だがかつての少年院を度々訪れては少年達の話し相手になったり寄付もしていた。「パピヨン」以降、「タワーリング・インフェルノ」('74)の後は、すっかり容姿も変貌、まるで世捨て人のようになる。


 
 2度目の結婚にも破れ、さらには自分自身が不慮の病に冒されると知る。するとマックィーンは実の父が飛行機乗りだったように飛行機に魅せられていく。メキシコで違法の治療も行うが、若き新妻の看護もむなしく息を引き取ったマックィーン。遺言通り、遺骨の灰は飛行機で大西洋の海に撒かれた。まるで「パピヨン」で自身が海で自由を掴んだように。マックィーン自身はパピヨン自身でもある。
 
 
 マックィーンは50歳で亡くなるまで自分の父の姿を追い求めていた。自分自身がいい父になれなかったからかもしれない。「ジュニア・ボナー」('72)の、父の夢を叶えるのに協力するロデオマン。そして遺作「ハンター」('80)での、ようやくの自分自身の赤ん坊の誕生に喜ぶ男の姿。
 
 孤独な男の旅は終わったが、「パピヨン」のあの透き通った青き海に蝶のように舞ったマックィーンの魂は、永遠に生きているのである。